オステオパシー

オステオパシーの始まり

オステオパシーは1874年に米国の医師であったアンドリュー・テイラー・スティル博士によって創始され、以降約100年かけてアメリカの全ての州で正式な医療行為として認められるに至っています。

スティル博士は3人の子供を流行性の髄膜炎でなくし、さらに1人を肺炎で亡くした経験から、それまでの医療(消毒の概念の無い外科手術、瀉血や下剤の投与など)に疑問を抱き、解剖学を基として病の原因を身体の構造に求める新しい医学体系を築きました。

スティル博士はオステオパシーの治療デモンストレーションをして米国を巡り、ミズーリ州カークスビルに最初のオステオパシー大学を創りました。その治療技術と効果の高さから「電光石火の骨接師」と称されたスティル博士の治療を受けるため、全米から患者が集まり、カークスビルの町には鉄道が敷設され、ホテルが建つほどであったと伝えられています。



アンドリュー・テイラー・スティル
アンドリュー・テイラー・スティル

オステオパシーの考え方

オステオパシーでは人間を身体(body)、精神(mind)、魂(spirit)の三位一体の存在であるととらえ、その治療を行うにあたって、次のようないくつかの基本理念があります。

・人体は一つのユニットである。
・構造と機能は相互に関係し影響する。
・人体には自然治癒力として自己防衛、自己管理の機序が備わっている。

人体が一つのユニットであるとは、一体どういうことかというと、人間の身体(心、魂)は全体として一つの存在であり、独立した部分の寄せ集めではなく、部分が全体に、全体が部分に影響し合う密接不可分なものである、ということです。

次に構造と機能についてですが、形が丸いタイヤは回転して進むことができるのに対し、もしタイヤが四角形や三角形であったら、回転する事が出来ず進むこともできません。一方、丸いタイヤも一か所だけを擦り続けて右図のようになってしまうと、それまでのようなスムーズな回転はできなくなってしまいます。このように物の形状、構造がその機能や働きを決定しているのです。また、この一か所だけを擦り続ける働きを「機能」とすると、構造は機能によって変化させられるということができます。人体で言えば、筋肉に特定の負荷をかけるトレーニング(機能)を続けると、筋肉が大きく肥大し、「構造」が変化する、ということになります。

最後に、自然治癒力についてですが、人間には本来自分を癒す力が備わっています。例えば、小さな傷であれば数日のうちに塞がってしまいますし、ウィルスや細菌の侵入に対しても免疫系が対抗してくれます。癌細胞を攻撃してくれるナチュラルキラー細胞まで生来備わっているのです。オステオパシーにおいて最も重要視されるべきこの自然治癒力に対する信頼、また、その十全な働きを確保するため、構造と機能の因果関係を追究することが、オステオパシーの考え方(哲学)となっています。



ここからはアンドリュー・テイラー・スティル博士の著作『オステオパシーの哲学と機械的原則』原題『THE PHILOSOPHY and MECHANICAL PRINCIPLES of OSTEOPATHY.』の前半部です。オステオパスとオステオパシーの学生向けですが、興味のある方は読んでみて下さい。




オステオパシーの哲学と機械的原則

はしがき



私の年齢でペンを執ること、また、この文明化された時代に即した言葉と形式を備えつつ、哲学的で理解できる様式で、病気の原因と治療について書くという責任を思うと、非常に大きな重責を感じ、暖かい目で世界が見てくれることを望まずにはいられない。私の書く事を精読し、解釈して、受容するか拒絶するか感じるままにして欲しい。私は自分の理性以外に羅針盤を持たず、一人きりでこの旅を始めた。だから、もし私がしくじったとしても、私以外にこの旅のせいで苦しむ者はいないだろう。



アンドリュー・テイラー・スティル

  1902年1月1日





序章

権威となるもの
 私は神と自らの経験以外、誰も引用しない。医学者が書いた書物は、我々には余り役に立たない。寧ろ、彼らが何も知らない科学について、その著作に助言や指示を求めることは極めて愚かしいことだ。彼らは自分達の学説に理知的な説明すらできないし、我々に助言するよう求められたこともない。私の学校の生徒で医学者の著作から知恵を得て、オステオパシーの哲学と実践に適応した者は、ほんの数名しかいない。どのような哲学の学徒であれ、もっと簡潔な論理によって最良の結果を得ることができる。我々は必要な知識のみのため論究し、不正確な学説ではなく、可能な限り多くの既知の事実から出発すべきである。
 我々の学校では、他のどんな学校よりも、解剖学の教育が徹底している。なぜなら、学生達は人体の全て、そのあらゆる部分の生きたイメージを持つことを求められるからだ。それは画家が絵筆を通して、その心象にある肖像や風景、動物等を望むがまま描画するかのようでなくてはならない。私は絶えず学生達に、心を正常な身体の画像で一杯にしておくよう求めてきた。

オステオパシーの時代
 「この発見を教え始めてどれくらいか。」という問いに答えるならば、それは自然の造物主が与えた人間と世界、存在における「命の法則」に対する私の信念に、理論を付与し始めた1855年4月からである。当時私は、薬物治療の医学システムに対し、自然の剣が抜かれ、大砲の照準が合わされたと感じていた。特にスコットランド、エジンバラのJ・M・ニール博士には、渇望していた情報について教えを請うた。彼は鋭い洞察力を備えた医師であり、自分の意見を自由に話し、要を得ていた。彼がスコットランド人であると私を疑わせた唯一の事実は、彼がウィスキーを愛していたことである。私は、スコットランド人は分別がある、と聞かされてきた。ジョン・M・ニールは、薬物は愚者の餌である、と断言し、さらに、薬物治療は科学ではなく、そのシステムは、医者が無知の病から金を得るために従う、ただの商取引に過ぎない、と剔抉した。彼は、自然には自らの治癒力を証明する能力がある、と信じていた。
 ここで、読者の忍耐を試す為に、薬物が治療法だと著している医学者のリストを挙げることはすまい。キリストが誰の為に死んだか訊かれた時に、神学者が良く使う言い回しを借用すれば、それは例外無く「全て」である。熟達した技術で異常をもたらす状態を正し、最も偉大な殺菌剤である純粋で健康な血液を送ることで、治癒が起こるのを知ってから、私は自然治癒力を認識するようになった。この信念と論法に基づき、私は実験的にオステオパシーで病気を治療し始め、実験的であったにも拘わらず、全ての病気で良好な結果を得た。私は何年もの間、この発見を公表することに躊躇してきた。だが少なくとも私は今いる岩の上に立ち、戦い続け、二九年間全ての決戦において、敵の旗を奪って来た。
 ガイドとなる他の人間の航海記録が無かったコロンブスは、沢山の嵐に会い、長く遠い航海をせねばならなかった。彼に有ったのは、自分の母国では見られない種類の少しばかりの流木だけだった。それが彼をあの行動に駆り立てたのだ。自分達の土地では育たない木があるという事実。彼はそれが、同胞の人種が知らない海岸を持つ、大洋の向こうの大地から来たに違いないと結論したのだ。この事実と彼の強い論理的思考力は、周囲からの反発に会い、彼は孤独に歩むことになる。学説という羅針盤を嵐の中でのガイドとしない、全ての者がそうしてきたように。そして、この反発は精神の冒険者が必ず遭遇するものだ。私は生きている真実に自分の船を繋ぎ、それが流れて行く所はどこであろうと、付いて行かねばならぬと感じていた。それで私は何年も前に大海原に漕ぎ出すことになったのだ。そして、真実が乗り越えられない嘲笑や罵倒の波は無い、ということを発見したのだった。

進歩の必要性
 20世紀の需要であるヒーリングアート(癒しの技法)の発展は、今の世代にとって急務である。なぜなら、この分野における発展は、他の分野のそれに追い付いていないのが実状だからだ。現在の医学校は、モルヒネやウィスキー、その他の薬物摂取の悪癖を形成する、酩酊したシステムの有害な教育機関に成り下がっており、これは知性と進歩の時代に対する汚名、恥辱である。全てが遅きに失してしまう前に、賢明に作られた規範が、これに取って代わるべきである。人々は現在も往時の如く病気になる。彼らの一生を阿片中毒者やアルコール依存症で終わらせずに治癒を成功させるため、人間の精神が生み出すものを求め、それに最大限の関心を寄せるべきであろう。
 この本は、行動を起こす前に熟慮するのを促すため、オステオパシーの学生に向けて書かれたものである。全ての場合において、治療を行う前に、因果関係を考察し、それを見つけ出さねばならない。苦痛を和らげられるか、治癒が成功するかは、この原因究明の能力に掛かっているからだ。
 オステオパスとして認可された者は、病気治療における旧来のシステムをゴミ箱に打棄り、「過去の遺物」と印す。そしてアメリカン・スクール・オブ・オステオパシーが、薬物治療ではなく、間違った状態のせいで不調を来した身体を、真に正常なあるべき姿に戻すことで、血液が病変部分に行渡り、純粋な血液に備わる治癒力が解放をもたらす、と教えたことを肝に銘じておかなければならない。さらにオステオパスは、最初に学ぶことが解剖学であり、最後に学ぶことも解剖学であり、さらに全てのレッスンが解剖学であることを憶えておかなければならない。

弟子の如く
 それは大工仕事を覚えようとする弟子のようなものだ。大工仕事の最初の手順、またはレッスンは、家の骨組みから始まる。親方の指示はまず土台作りだ。親方はそれが非常に堅固であることを是とし、強調するだろう。それは完璧に真直ぐで水平でなければならない。基礎を作り上げた後、親方は次の工程が根太であることを弟子に伝え、その講義と実地訓練を行う。根太は土台に対して充分な長さがなければならない。弟子は鋸を引き、鉋を掛け建物の一角を完成させる。同様に他の三つの辺も、大工の常識である完全な対角線を得るために必要な6:8:10の数学法則に従い、材木を組んで結んでいく。ここで親方は弟子に、良い土台の重要性を教え始める。この訓示的指導の後、親方は弟子に、土台の上の根太にしっかりと柱や梁を固定するため、従わなければならない決まり事を見ておくよう伝える。これらの柱は一階と上の階を支え、建物の辺から辺へのびる梁によって支えられている。弟子はすぐに自分で見つけるか、教えられるかして、柱の上端に屋根の重量を支えるための梁や壁材があることに気が付くだろう。だが、この若者はまだ大工とは言えない。彼は職人に相応しいやり方で羽目板を取り付けるよう指図を受けて、それを知ることになる。この段階の建築においては指導も同等に重要なのだ。彼は自分の判断に従って取り付けた最初の羽目板、さらにその後の多くの拙さを指摘され、棟梁に外すよう指示される。それらは計画の要件を満たしておらず、設計図にも合致していないからだ。次の検査で、羽目板が上手くつけられていることを確認されると、若者は笑みを浮かべ、やっと老人を一回喜ばせたと考え、「親方、どうですか?」と声を弾ませ訊く。これに対する答えはこうだ「釘頭の処理はしたんだろうな?」若者が「いけねぇ、忘れてました」と答えた所で、親方は弟子に「ペンキ屋に家の半分は準備が済んだと伝えとけ」と言い渡す。そして、ここまで来て親方は、窓に関連した指導に備える。窓は上下からロープと滑車を使って上げ下げされるのだが、仕事において重要な部分であるので、親方は最初の幾つかで弟子を助けてやる。それから親方は弟子を信用し、窓のバランスの調整を任せ、一つが済んだら報告するように命じて行く。それを検査して親方は「よし、続けろ」と言う。それから親方は工程表と設計図を開いて「これから、床を本張りするぞ」と伝える。彼は指導しつつ、幾つかの板を調整し、その作業を弟子に続けるよう言いつけて行く。暫くして棟梁は、計画通りに仕事が進んでいるか確認するため、工程表と設計図を手に戻って来る。工程表には床板の継ぎ目や両辺、両端が真直ぐでピッタリと完全に嵌るように記してある。彼は弟子に「こっち側のこの板に3mmのひび割れが走っているだろう。それから幾つか端が合っていないのもある。切られた段階で真っ直ぐじゃなかったからだ。こんなんじゃ金も貰えないし、引き渡しもできない。工程表と設計図通りに床が張られなかったからだ。俺達はこれを剥いでしまわなきゃならん。時間と材木と釘を無駄にしてな。」今度は金巻を使って鋸を引くよう親方は指示を出し、「全ての板が両辺と両端でビッタリ合うように、集中するんだぞ。」と念を押す。これ以上詳細を語ることは止めにするが、最後の釘を打ち終わるまで、このような厳格さで工程表と設計図に従うことが求められるのは言うに及ばず、家が完成間近となっても、正確性への要求は続き、怠慢のために支払う代価は寧ろ大きくなるのだ。そして、大工見習いが土台と骨組みを設えるのに求められたのと同様の完璧な仕事が、配管工、電気工、左官にも要求されるのだ。私は、この卑近で日常的な例えを用いて、学生達の心に、彼らが検査官でもあるという作業仮説をリベットで打ち付けたいのだ。そして、オステオパスとしての彼らは、健康な人体の工程表と設計図を基に、正常から異常に至る変異や全ての欠陥を判断し、正すことになる。学生達はこの学問を、骨という命が宿る家の柱梁から始める。彼らは土台その他の部分が、賢明に設計され、綿密に規定されていることを知る。彼らが聖書の中の「人間をつくろう」という言葉を考える時、学生と臨床家にとって意味することはこれである「人間について学ぼう。精巧な工程表と設計図によって作られ、その完成に際して、全てを創造した一切の妥協の無い厳正な検査官から、良いばかりでなく、寧ろ、非常に良いと宣言された人間について。」人間の建設において、真理のもう一つ説明は、全ての部分における完璧さだけが、良しとされるということだ。この急ごしらえの例えでも、学生達が苦痛に健康と調和をもたらすために、進み出ようとする時の助けになることを、私は望むものである。
 この本は、学生、臨床家双方のガイドブック、教科書となるだろう。そして、自然の自己回復、自己修復に呼応し、良い結果を得るための努力をする初心者から熟達者までを補助するという、著者の役割がその目的である。棟梁として、オステオパシー医師は修理店だけを差配できる。そしてその仕事である徹底的な検査が恙なく進行するように、人体を幾つかの区分に分割して説明するのが最良であろう。まず、頭部と頸部、そしてその区分に属する病気から始める。それから脊柱の上部、胸部、そこに存在する臓器で横隔膜までが続く。そして横隔膜から仙骨までの区分。最後に仙骨から尾骨までである。人間を対象とした治癒可能な病気の原因と治療法の知識を系統立てて簡潔にし、読者がこの哲学について完全に理解できるよう、私は言葉を操り、最も明快かつ説得力のある言葉で、人類に一般的な病気を分類し、これを提示するものである。

真理は真理である
 我々はしばしば真理について語る。「偉大なる真理」等といった言葉でそれを定義する。しかしながら、どのような真理であろうとも、他の真理よりも優れているというわけでない。全ての真理はそれ自身に固有の有用性を本分としているのだ。だから我々は、その大小に関係なく、全ての真理に敬意を払うべきである。真理とは自然の完璧な仕事に宿るものであり、種々の真理に属する肝となる原則によってしか論証することがかなわない。それぞれの真理または区分は、これから見るように、真理がその活動によって表す自明の事実を通してのみ、我々に知らされるものなのだ。
 もし我々の論究を始める基礎として、人間を対象とするならば、そこには其々の目的を果たす為にデザインされた、異なる種々の要素の連携が見付けられるだろう。それは、その活動が我々にとって、デザインされた目的に沿うよう、精巧に形作られ配置されている。我々は五感を通して物質的肉体と向き合う。それは活動し、我々は思考するための精神と繋がる視覚を通して観察する。対象への五感の上位にある活動の原因は、動作である。五感という目撃者の証言により、固さや大きさを思考するといったやり方で、精神は繋がっていく。匂い、味、音によって思考と我々が思考しようとする対象の他の各部は連結し、五人の目撃者はその上位概念のため土台の上に配列される。その上位概念とは精神である。

人間の三位一体性
 自ら動き、その意思によって進んだり止まったりする力をもった、完全な形態としての人間を見た我々には、それが某かの指令に従っているように見えている。彼は進み、止まり、寝そべり、起き上がる。回転して、自分と同じ方向に進む物体に直面する。彼は自分の動作によってその物体に直面するのかもしれない。そして、回れ右をした彼は、凄い速さでこちらに向かってくる物体に気付く。それが自分の速度で回避できないと見て取った彼は、何かの命令に従っているかのように脇に避けて、その物体をやり過ごす。観察者はここで疑問に思う「彼はどうやって危険な物体が近付いて来るのを知ったのだろう。」そこで彼は、慎重な試験によって、聴覚には全面的に因果関係が無いことを発見する。同様の事が人、獣、鳥に備わる全ての五感でも真である。この五つの物理的な感覚の状況から論理的に考えれば、より上位の存在が物質としての人間を指揮し、維持し、支え、危険から守っていると結論付けざるを得ない。そして全ての調査を終えた我々は、人間がその完成において三位一体であると決定した。
 第一に物質としての身体があり、第二に霊的な存在がある。第三が、全ての生命運動や物質的形態に優先する精神、心であり、その使命は命のエンジンを賢明に制御することである。この精神として知られる偉大な本質こそ、五感の証拠全てを集め、その証言をもとに全ての精神的判決を下し、どちらに進みどこで止まるか、全ての命令がこの精神の法廷から発せられるのだ。我々は自然の真理と自分自身を調和させ、和合して進むことで良い結果を得ることができる。この偉大な人間という機械が、その全ての部分で動くのを止める時、我々はそれを死と呼ぶが、精神や動作が探究者のメスで発見されることはない。彼は単純に、動くための動力もそれを指図する心も持たない、組み上げられた物質を発見するのみである。彼は液体が循環していた導管を辿って行くことはできるし、部分の他に対する関係を発見することもできる。実際、メスを使って、かつては精巧に活動していた機械的仕組みを開帳させることも可能だ。この探究者が基本的動作を起こすことができるとして、我々は特定の動きを目撃するだろうが、それは本来の動作ではないのだ。そこに彼は望まれていない。この機械としての活動する身体に、加えられるべき絶対不可欠なもの、それが心なのだ。これが加わることで、機械装置全体が人間として働く。そして、この三つが十全な活動に統合される時、望まれるもの、即ち完全性が現されるのである。

塵芥
 我々が何かを書いたり話したりするとき、読者や聴者に全ての作業を中断させて、読み、聴くことを要請しているということを忘れてはならない。我々は彼らの貴重な時間に見合う何かを提供しなければならない。一己のアメリカ人の時間は、何の足しにもならない長話に付き合っていられる程無価値ではないのだ。我々は女王や国王、教授が何を言ったか等は大して気にしないし、我々が欲するのはあなたの知識なのだ。未消化の無価値な文献を読むのに費やすには、人生は短過ぎるし、有用過ぎる。仮に農家が畜産と穀物栽培についての本を書いたとしよう。その本が学生に、某教授が種を播き、栽培、飼育を行い失敗したと伝え、「しかしながら」や「前述のように、私の見解は」云々で閉じられていない講義をしなかったとしたら、農学者の卵にとってそれを読む価値があるだろうか。そしてもし、他に従う指導が無かったとしたら、彼がどんな農家になれるというのだ?既知の真理により律せられることを学ぶまで、彼がその生業において、完全な失敗者となるのは目に見えている。彼の成功は、誰かが失敗したことについて暗唱できるようになる事ではなく、自身の知識に掛かっているのだ。

オステオパシー
 オステオパシーとは何か?それは、人体に対する緊張、衝撃、転倒、全ての種類の外傷や力学的変位によって怪我を負った、又は、病気に罹った人の役に立つよう、その知識を適用する知性と技能を備えた人間が手にする、解剖学と生理学の科学的知識である。時代に後れを取らぬオステオパスは、それに相応しい解剖学と生理学の知識を持っていなければならぬ。そして、ストレスや転倒またはその他全ての原因によって不調を来した体の部分を、たとえそれが千分の一インチ以下の微細な神経の正常からの逸脱であっても、熟練した技術で再調整し病気を治癒させる、オステオパシーの臨床、外科、産科に精通していなければならない。オステオパスは病気の兆候である微かな解剖学的逸脱の原因を理解する。オステオパシーの意味する所は、頭、顔、首、胸郭、腹、骨盤、そして四肢における解剖学の知識、また何故、全ての場合において、身体のあらゆる部分の完全な正常さに健康が伴うのかという知識である。また、オステオパシーはこの職業に携わる男女が有する最高の知的才能を、熱心に学問へと適用させることを意味している。オステオパシーにはビールを飲んだり、ビリヤード台の周りでキューを持って靴底をすり減らしたりする時間は無い。それは脳を素面に保ち、解剖学と生理学に、そして病気の原因を探すことに倦むことの無い人間のためのものなのだ。オステオパスは学ぶことによって疑問を解決し、有言実行により自らの証を立てる。オステオパシーが現れるまでの医学界は、総じて人体の腹部における仕組みと機能の知識をほぼ完全に欠いていた。今日の薬医の知識をその行為から判断するならば、腹部に入った時点で完全に五里霧中である。彼は症候学によって得た手段で腸の病気と格闘する。例えば慢性便秘において、彼は原因を追究しない。彼の心は、本来細心の注意をもって扱うべき、強力な下剤にすぐ落ちてくる。蠕動運動の効果を得るための最も強い下剤が、浣腸の助けも虚しく失敗し、腸が腹腔をきつく一杯に満たし、横隔膜以下の臓器は活動できず、全ての動きが失われ、動脈や静脈の血液循環すら阻害される。ここで胃が食物できつくなれば、糞便を嘔吐するまでになり、全体の生命力が低下する。ここまで来たら外科的介入以外に、何がこの医者に残されているだろう?彼は期待と疑念の内に、その道具と技術の使用に取り掛かる。オステオパスはこのような病気の治療を、腹部臓器の調整で成功させる。それが硬いか柔らかいかに拘わらず、本来の通路を通して体から出し、腸を糞便の塊から解放するという視点に立つ。だがここで、酷いストレスや持ち上げ作業、転倒等によって、腹部の異常な位置に腸が押しやられ、様々な箇所で腸間膜が錯綜した結果起こる、腸のよじれ、折り重なり、絡まりや、縺れによる物理的障害に行き当る。オステオパスは、糞便の通過を妨げる障害の抵抗が無くなる様に内臓の位置を正し終わるまで、下剤の使用は正当化されないと感じる。機械修理の職人のように仕事を遂行するのだ。

知性の問題
 オステオパシーは文献や書籍の問題というよりは、知性の問題である。オステオパスとして成功する者は、全ての場合において、あらゆる動作を力学的視点で追い、身体の全ての部分を本来の正常な位置に再調整するよう努める。正しく導かれていない力は危険なものであり、しばしば害悪となって、良く制御された技術の報酬たるべき解放に失敗する。解剖学の知識は、その適用に成功する技術を知らなければ、無用の長物なのだ。何故我々の解剖学の知識が、他のどんな医療系学校が与えるそれよりも完璧でなければならないかは、これに尽きる。オステオパスは書籍と訓練、そして解剖学の知識の完成に不可欠な書籍に対しての私の注釈をもって、徹底的に訓練されなければならない。
 解剖学の完全な知識を得るための「書籍」で、私の意味する所を学生が理解できていない可能性もあるから、ここに簡単なリストを作ろう。まず、最高の著者による最新の記述的解剖学書。同様の検証的解剖学書、人体生理学、組織学、そして生化学の教科書である。これらの解剖学という一分野から派生した分野の完全な知識こそ、学生に必須の資格である。有用な目的に沿って、この解剖学の知識をどのように、またはなぜ適用するのか、学生は指導を受けなければならない。その目的とは、解剖学的厳密さをもって、停滞した液体の循環を部分的、または全体的に、身体のある場所から、他の場所へと通してやるということである。
 人体とその全ての部分の形質と機能の正しい知識を持って初めて、ミクロな原子からマクロな骨や筋までの人体のあらゆる部分の骨、筋、靭帯、繊維の変異が何を意味するか知る準備ができる。解剖学の知性に先導された機械的技術により、我々は身体の硬い物質、柔らかい物質両方を調査し、調整することができるのだ。同様に我々は、生理学の知識に基づき、正常な生命の需要を満たすようタイミングとスピード、量が調和して、体液が循環することの必要性を理解する。オステオパシーは厳密な自然の原則の下、簡潔で真である強力な科学であると、それ自身を証明していると我々は考えている。

独立体系としてのオステオパシー
 オステオパシーはこれまで、アロパシー(逆症療法)、ホメオパシー、折衷主義等の他の医学体系に助けを求めたことは無いし、今も求めていない。オステオパシーはそれら全てから独立を宣言し、過去にそうだったように、これからも独自路線を貫くことができると断言する。全ての医学体系は、病気という軍隊に対して、疾病を殺す命令と共に、知恵のライフル部隊を送り込むことに依っている。だがそれによって病気の男や女、子供を殺してはならない。その弾丸が持つ毒の致死性の如何に拘わらず、ライフルは疾病を殺し、全ての病気から患者を解放するために撃たれなければならない。賢者による治療は、まさに指をパチリと鳴らすがごとくに見える。それから、水療法、祈祷療法と続き、リストは続いて行く。だがこれらのどれも、健康と長寿を確実にするための、高度に統制された体系としての基礎を有していない。オステオパシーは、身体の全ての関節が自然の命じるままに動くことができる時、治療が成功すると証明し、それを宣言する。自然はどこの世界でも、不完全な不良品を市場に出すことはないのだと、我々は推測する。薬医が、本質的な証明と共に、病気の人間の血に、薬を加える必要性や不可避性を知性的に議論することができるまでは、次のような問いに対しては否定的な答えがなされるだろう。「自然の神は、その自然という作業所において、良い仕事をするための余り有る技術を有していないのだろうか?」

自然は健康である
 我々は形態や活動の優れた仕組みを自然の中に見出す。そして、自然は不完全な仕事をする代わりに、完全性へと働き、また完璧さがそのあらゆる部分と機能のスローガンであると知る為に学んできた。今までに賢者は、自分の提案できることが、何も良い結果を生まず、むしろ大抵、大きな害をもたらしていると、長いこと掛けて学んできた。彼は仕掛けを壊したり台無しにしたりして、その役割を部分的または全体的に失わせた。彼は助けとなる筈の物が、自分の患者を障害者にし、死なせる事すらあるのを見てきた。薬物提供者は、神がその余り有る英知で、機械に要求される日常の作業を行わせるのに飽き足らず、生命にさらに良い仕事をさせようと企む。彼が精を出すのは徹頭徹尾「薬」であり、それしか眼中に無い。
 化学者は偶然によって望む結果を得るのだろうか?あなたの偶然は彼のそれより、成功をもたらす確率が高いだろうか?原理や成功は、思索や冷静な論究に因るのではないのか?我々は理性によって統治されたいならば、真理の上に基礎を置くという立場をとらねばならないし、自分達が示す真理の正当性を証明する事実を提示できなければならない。全ての自然は、自身の仕事が主張する所を証明可能とする、証人としての見本を見せてくれる程には親切である。その確固たる証拠無くしては、自然は幸運の神の手に委ねられてしまうであろう。そして母の法則、妊娠、成長、誕生、原子から宇宙までが、統御する中枢を失った失敗作となってしまうだろう。だが自然の美しい仕事が、偉大なものから矮小なものに至るまで、あらゆる存在が原因と結果の法則に従っている、という証拠を我々に示しているように、我々自身も結果を望むのなら、原因の法則に則って仕事をする運命にあると言えないだろうか?

他のシステムとの関係
 我々は自分達の仕事に精を出すことに対して、全世界から最大限の敬意を払われることを望む。そして我々は、自分達の有用性を公言するつもりである。我々は自由なアメリカ人だ。他の学校を見下さないし、我々も見下されることを望まない。そして、どのような医学の独裁者によっても、我々の当然の権利が踏み躙られ、略奪されるのを許さない。我々は学生達が完全に準備ができるよう教育し、外科、産科、一般臨床の教育に必要な全ての時間を費やす。我々は有能な学生達に、二年または四年の時間を過ごしたことに対してではなく、アメリカン・スクール・オブ・オステオパシーで教えられる全ての原則と解剖学、生理学、化学、外科学、産科学の知識があることが証明された時に、証書を授与する。我々には、疑わしい学説に感けている時間は無い。我々が望むのは量より質だ。他のシステムは量をとるかもしれないが、我々は質を取る。そして、自分達の仕事に精を出し、他のシステムも自分達のそれに精を出すことを望んでいる。我々の学校は時間を潰すために創られたのではない。簡潔さが我々の目指すところである。一己の人間が持つことの叶うもので、有能さという美徳は最高のものだろう。我々はその美徳のもたらす所全てを欲する。我々が全ての昼と夜を懸命に、勉強と徹底的な訓練に費やし、二年間でその美徳を得る事に成功し、自分達の知識に対する厳しい試験を通り、自分達が主張することを熟知していることを世界に証明できた時は、職業を追求する我々自身が丁重に扱われることを私は望む。我々の議会は進歩への盟友であり、我々が長じることを我々に与えるだろう。彼らは全て、公正な戦いを信じるアメリカ人であり、リングを整え、最も優れた人間が勝ち残るのを見ることになる。我々が要請すべきは正しい評決だけである。我々は子供達を破傷風にするために薬を与えたことは無いし、そのつもりも無い。だがもし、医療トラストのメンバー達が、我々に口出ししてくるようなことがあれば、我々は議会に、彼らのおせっかいな口を閉じさせるため、自分達の抗毒薬を飲ませるか、「腐った牛」のワクチンを注射し、牛梅毒や破傷風を煮出すため、温泉に隠居させることを要請しよう。ワクチンは呪われた汚物であり、狂犬病やら人間や獣の性病やらに感染させた牛の死骸から作られているのだ。

離れ難しは旧態依然
 人々に受け入れられてきた、全ての旧態依然たる教育システムを捨て去るのは、容易なことではない。これは教師達を生み出し、彼らの指導者、先達となってきた教授達の慣習のためである。彼らが不平も言わずに古いシステムに従っているのには、幾つか理由がある。まず、若い教師達には、自分達が教えるべきだと感じることを教えるよりも、教えられてきたことを教える方が、よっぽど簡単だということがある。この時、この若い男女達は、古い指導方法を新しく変えるための運動や提案をする前に、まず、生活を立てなければならないと感じている。自分達の地位や給料を失うことは、彼を当惑させ、粗探しをするクレーマーとの誹りを世間から受けさせることになるかもしれない。彼にとってパンと肉は最優先事項であり、一年間は沈黙を通すことが決定される。そして、一年また一年と過ぎていき、それが習い性となるまで、生活が彼を沈黙させておく。改革の希望は全て失われ、ここに来て彼は人気作家になろうという結論に辿り着く。彼は引用と抜粋を重ね、ついに他の作家と全く摩擦の生じない「新しい本」を仕上げる。彼の髪は抑圧された志と共に薄くなり、数年の内に希望が永遠に失われるに伴い、全ての髪が抜け落ちる。彼は教育のルーティンワークや、他の古い学説から何食わぬ顔で借用することを学ぶ。時代に何一つとして新しい思想をもたらさない、この旧態依然としたシステムを、世代に次ぐ世代が踏襲していく。結果、パンと肉を失う恐怖が、教師達を史上最も暗愚な時代の細道に閉じ込め、何世紀にも渡って、人々を貶めてきた。私はこの医療革命に参加する有志を求める。我々は髪が抜け落ちてしまう前に、これを成し遂げなければならない。そうでなければ成功はない。私は近頃、婦人科学の教科書を読んだが、著者は他の本から375の引用をしていた。その本は700ページしかないにも拘わらず、375もの引用がされているのだ。あなたの頭に一本でも髪の毛が残っているならば、その一本でもこの著者が、ただの切り貼り屋であり、引用作家であることを理解するには十分だろう。彼は、革命を率いたかどで逮捕、起訴され有罪となり、軍法会議で銃殺されるような著者ではない。我々の学校は自らの進歩主義を公言してきた。我々は支配を脅かそうと試みるのだ。「汝欺くなかれ」さあ、自分達が宣言したことを実践しようではないか。


第一章 重要な学問分野

解剖学
 私は若い頃に解剖学の学習を始め、それが「アルファでありオメガである」と信じてきた。それは、人間の身体の全ての形態、そして同時に、構成要素の種類及び量の選択と結合によってそれに形態を与えている全ての法則の始まりであり終わりなのだ。人間の形態は一つの目的を示唆している。最初にそれは全ての生命を象形文字的に代表するものとして建造された。また、その本質として、物質的形態と生命活動、精神の統治によって世界を作ることに、物理的かつ精神的に興味を抱くものとして創造された。人は神の心と知恵を象徴する資質を与えられたのだ。これはその知識が示す所に、また、与えられた精神的知覚と結論を下すことができるまで事実を蓄積し合致させることで、その知識を増やし完全なものとする能力に顕れている。神の絶対的知識という精神的機能に欠ける人間は、これを補う為に思考する。人は自分の領分の限界まで辿り着くことができるが、それ以上は行けない。魚は水面まで泳いで上がることができるし、底まで潜ることもできる。それは自らが棲み、探検できるよう準備された川や海を縦横無尽に行くことができる。まるで「汝そこまで行くべし、そこから先は行くべからず」という命令に従っているかのように。天高く舞う鳥は、大気という海で泳ぐ唯一の魚と言えよう。彼らはこの大洋の海面に触れ、底面へと下ることができる。彼らの生命の活動範囲はこの上限と下限の間にある。彼らは生き、繁殖し、自分達に付与された有用性の領域にいることを楽しむことが可能だ。そして、魚と同じように、人間も同じくこの法則に従っている。もし魚が鳥とその立場を交代したなら、確実に息絶え、絶滅してしまうだろう。鳥とて同様だ。命を維持する要素は、それぞれ固有の環境に十分に供給され、内包されているが、鳥が水の海に棲もうとすれば、同じ法則の絶滅という側面が強いられることになる。この我々の哲学における自然の基礎概念を適用し、思考の便宜のために少しばかり変化させてみよう。仮に我々の心臓を頭蓋に格納し、代わりに脳を、今肝臓があるところに移すとしよう。肝臓は肺に、肺は骨盤腔に移すとしたら、鳥も魚も死んでしまう以外に、何をか望むことが叶おうか。これが臨床家であるオステオパスに、身体の調整に対し非常に的確であることが求められる所以である。彼は全ての個々の部分において、自らの仕事が正しく行われたことを知っていなければならない。それは、全身を通じて形、大きさが無限の正しさを備え、個として最初の命の息吹を受け取った時の完全性へ向かって、神の手にある生命に必要な燃料や栄養が調整されることを目的とする視点に立つ。
 オステオパシーは債務者と債権者の原理の上に築かれている。我々は、動物生命の全ての仕組みと働きにおいて、自然がその仕事を完成させること、また、中心と変位によるその結果の良し悪しに、自ら進んで信用貸しをする。正常な中心からの変位を観察するとき、我々の仕事は終わることを許されない。そして、調整により正常へと辿り着くまで、報酬は支払われない。我々は自らの支払い能力を知っており、正確な計算書を提出するため働かなければならない。そして、進んでその仕事に対する解剖学的批評を甘受するのだ。

生理学
 現在における生理学の研究結果は、多くの学説と少ない事実の寄せ集めに過ぎない。動物生理学から、赤ん坊は成人のように大きくは無いが、その内、成人の大きさまで育つであろうことが、誰の目にも明らかだ。大きくなるためには、人は自らの形質に合致する物質によって形作られなければならない。また、他の全ての部分と統合されて、完全な稼働エンジンができるように、それぞれの部分の形は厳密に整っていなければならない。しかも、幸運に因ってではなく、動物のエンジン製造のルールに依って。そして、それが完成した時、彼は一個の自律する個体として、動く力とそれを統率する心を与えられる。これにより、人は快適さに注意を向け、さらに、自らの責務が果たせるように、大きさと形状を維持するため、食物を準備し、消費することを考えるようになるのだ。
 ここまで、我々は人間が完全な形態にある場合だけを見てきた。人がどのようにしてその形、大きさ、そして動きを獲得するのか、我々は知っているとしてもその知識は非常に限定されている。この時点で、我々は心の中で問う「如何にしてこの作品は仕上げられたのか?」と。そして直ぐに、自然という教科書だけが、その知識を授けてくれる唯一の情報源であることを学ぶ。もし、我々がこの驚くべき仕組みの「何故」や「如何にして」を望むのであれば、自然という店に入って行き、吟味し、因果関係から論究しなければならない。そして、もしその全体像を理解したいのであれば、まず我々は、その各部分について知る必要がある。そこで我々は、死人を台の上に載せ、観察するために全ての部分を開いてみる。我々は自らの知識の本を、経験という賢い教授の下で書き始めるのだ。ここから我々は、解剖学の海へと出航する。まず、我々は全身を包み、覆っている皮膚を切り剥がす。そして、皮膚を除去し、その先に進むと直ぐに、筋膜に遭遇する。我々はそこに細胞や、腺、血管や他の導管、そしてあらゆる部分から、またはあらゆる部分へと延びる神経を発見する。そして、この筋膜こそ、動物生命という工場におけるその使用と、その能力に関する表面的な知識でさえ、習得するのに最大限の精神作用を永遠に費やすことができる程の場所なのだ。我々の旅はこの筋膜から、筋肉、靭帯、そして骨へと続く。それら全ては、生ける機械における自然の偉大なデザインに沿うよう形作られ、調整されている。さらに我々はナイフを用いて、臓器、腺、そして血管に光を当てていく。
 「生理学」を然るべき敬意をもって扱い、旧説にも、それがもたらした光と功績に評価を与えよう。だが、それらの知恵に臆してはならない。今の所、彼らは顕微鏡を通して死んだ肉を眺め、死んだ成分を化学分析して来たに過ぎない。確かに彼らは何かを得ようと試みてきたが、彼らの言説は「恐らく」、「それにも拘らず」や「何々が疑われる」さらには、「直近の講義で述べたように、バクテリアや微生物の分野は諸説紛々としており、伝染性のクループやジフテリア、喉や気管、扁桃腺や腺系の病気の流行に関しては、生理活動や血液の変化に様々な学説が存在している。」に占められている。そして、この辺りで学生は喉と肺の全ての病気に対する素晴らしい治療法たる「抗毒薬」について、この薬を頻繁かつ完全に使うことが効果的であると報告されており、抗毒薬治療におけるジフテリアのケースで死亡率は50%以下である、と教えられる。だが、私はその学生にこう言いたい。「クロープに良い」という効能書きを発見するまで、処方箋リストを捲らなければならないという考えを強要される前に、若い医師に必要なのは、病気の原因に関する知識ではないのかと。医師の処方箋のコピーは、調剤されるため、急いで薬局に送られる。善良な薬剤師は、処方箋に記載された薬の全てを持ってはいなかった。だが、彼は賢くもあったから、足りない分を代用物で間に合わせる。ここでもし、患者が快復したら、薬局の従業員はさらにこの混合物を調合して、世間に彼が発見した「万能薬」がどんなに素晴らしいか吹聴する。そして次の処方箋が来る。だが、今度は別の病気だ。この処方箋はいつもの良い老医師によって書かれたものだが、ここでもまた同じことが繰り返される。全ての薬が手元に揃っていないので、他の代用物が試される。結果としてその患者が死んだら、沈黙するだけだ。薬剤師は不安にかられて、処方箋を探し出し、医者が同じものを送ってきたことを示す為にとっておく。そして、それが正当に調剤されたものだと話す。彼は巧妙に世間を代用物に対して無知にしておく。こうして若い医師は、症候学の導きにより、報酬を受け取るために、何か提供すものを見つけなければならない、という考えに行きつく。

化学
 オステオパスは治療法として化学物質を使わないから、化学の勉強は学生にとって、自然界にある物質は結合して他の物質を形成し、このような変化や結合無くして、歯や骨、毛髪や筋肉も存在しえないということを学ぶためでしかない。だが、そうだとしても、化学には、徹底的なオステオパシー教育の一角を成すものとして、大きな有用性がある。我々はその学習を通じて、何故食物が体内で骨や筋肉などに変わるのか、その理由を知ることができる。もし、我々が化学を良く知らなかったとしたら、食べた後の食物が何になるのかという質問に解答するのに、憂慮すべき問題を抱える事となるだろう。化学によって自然を学ぶ学生の心に、生理学の真理を確固なものとして根付かせることができる。彼らは人の身体の中で、この素晴らしい化学変化が、全ての仕事を遂行していること、そして、自然の化学工場には、学ぶべきことが沢山あることを発見する。さらに、化学の導きによって我々は、生理学における美しさを目にすることができるのである。化学というものは、生理学を証人として、それが自然の法であると同様に、人間の法であることを明らかにしている。化学によって我々は、自信を持って使う事の出来る、自然の結合における様々な法則の理解が可能となるのだ。結合における原因と変化の法、即ち、オステオパシーの学生が探求する基本となる法を、我々は化学によって熟知するのである。
 人体の全ての部分は、化学物質によって動かされており、局所的な欲求のために、各部が全体的な供給からその物質を製造しているというのが、オステオパシーの信条である。例えば、肝臓は自分の為に、自らの部門にある工場で準備された物質を作り出す。そしてこれは、心臓や脳でも同じである。妨害や遅延の原因となるものは、オステオパスがそれを発見、除去できる場合、許容され得ないだろう。ここで、四肢の一つからの供給が遅延すると、それが痩せ衰えるということを論究してみよう。我々は二つの原因に行き当る。供給への渇望と老廃物の堆積である。

オステオパシーの原理
 オステオパシーの原理という学問分野は、人間の建造における完璧な工程表と設計図に対する理解をもたらす。この生命のエンジンを理解するためには、其々全ての部分の場所と使途における知識の欠如が無くなるまで、この工程表と設計図を絶えず心の中、目の前に広げておくことが必要だ。それら全部分の形態や大きさ、どこに繋がっているかを含む完全な知識が習得され、記憶にしっかりと焼き付けられたならば、大小其々の部分の用途や目的、また、生命エンジンの働きで、どのような責務が果たされなければならないか、に対する疑念は存在し得なくなるだろう。エンジニアのガイドブックである解剖学を通して、設計図が徹底的に学ばれて初めて、我々はその責務を果たすために形作られたエンジンを動かす、動力に関する章節へと進むことができる。この章節において我々の心は、動力の始まりである脳と、それが全てのベルトや滑車、軸受け、さらには構造体の全ての部署にどのように導かれているかに、差し向けられる。動力がどこで得られるのか、また、全身を通じて、部分から部分へどのように運ばれるのかを学ぶと、興味が掻き立てられ、賢明に指導を受けるようになる。そして、この偉大な生命のシステムの様々な部分を観察し、大小の血管を流れる血液として広く知られている液体への準備ができる。その導管の極小の形態を観察するのには、強力な顕微鏡の助けを借りなければならない。そしてこの導管へと血液や他の液体は導かれていく。こうして、解剖学の学習と解剖実習によって得られた、正常な身体に対する知見によって、今度は、エンジンの正常と異常を比べるための取調室に招待される準備が整う。この部屋に呼ばれるのは、道路から放り出されたり、衝突によって傷ついたりしたエンジンを比較するためである。歪んだ軸受けや、パイプ、ボルト、またはその他の不調を見る。この機械を修理するということは、機械技師が発見する異常状態を正常状態のエンジンへと調整することを意味する。我々の仕事は、まず、真っ直ぐな車軸に車輪を揃えることから始まる。それから、我々は自然と、ボイラーや蒸気室、シャフト等の、完全なエンジンに所属する全ての場所へと導かれて行く。そうして、計画書に明示され、設計図に記されているように、それらが真直ぐで、正しい場所に納まっていると納得させられた時、機械技師主任として要求された仕事が全てなされたということになる。その後、エンジンは機関士に委ねられ、彼はそれに水や火を与え、この被造物をその旅路へと導いて行く。オステオパシー機械工として、我々は異常状態を正常へと調整する以上のことはしない。そこから先は自然の仕事であるからだ。

症候学
 正常における解剖学が適切に理解されて初めて、我々は異常な状態を調査することができるようになる。我々が発見する正常からの変位は、計測すれば百分の一インチ足らずであるかもしれない。だが、たとえそれが極限的に小さいものであったとしても、異常であることに変わりは無い。靭帯の異常な緊張に起因する結果を辿れば、簡単に次のような結論が得られる。即ち、その百分の一インチの不調箇所は、往々にして、構築や活性化、さらには、領土を守るための責務を負った、血管や神経が分布している箇所である可能性があり、面積は小さくとも、健康の正常基準に完全に影響するものである。極々微細な繊維や、導管、腺、筋膜、神経とリンパの通路を作る細胞、これらの構築と維持に必要な液体を、血管は運んでいる。そしてそれは、正常な生理学的作用が、人体の健康維持機能との完全な調和の下に執行される前に、絶対的に正常な位置になければならない。もし、神経や導管が妨害されたとしたら、我々は遅延と、それに続く自然の工場における作業の混乱を予想しなくてはならない。このようにして我々は、大小の繊維、靭帯、筋、全ての臓器、腺への血液と神経の供給、筋膜のリンパ、そして全体的な血液循環に関する徹底的な知見の重要性を認識するのである。我々は、あなたが徹底的に、自らを人体解剖学に精通させることを望む。そうすることで、あなたの手、目、そして思考は、全ての原因と結果について、失敗することの無いガイドとなるだろう。同様に、これが生きた、信頼に足る症候学であることをあなたの心に印象付けることを望む。それは言葉を弄して始まり、古臭い学説の当てにならない焼き直しで終わるような、単なる思い付きではない。そして、愚かさと無知と迷信によって生まれ、今日まで維持されてきた、黄色のチョークで書いたマークを子供に越えさせるといったような、父母の教える古い慣習でもない。本書こそ、症候学の本としてあなたが購入すべきものだ。他の全ての症候学の本の代わりに使うと良い。その代価として永遠の不寝番を得ることができるだろう。

外科学
 外科手術はアメリカン・スクール・オブ・オステオパシーで教えられるように、事実を基にした全ての証拠が、血液だけでは負傷を修復できないと示している場合において、苦痛を緩和し、生命または四肢を救うために必要であると、知性が判断した場合に限って使われるべきである。我々が外科手術を使うのは、死んだ液体が毒を放出して、生命、身体の臓器、四肢が破壊される最悪の状況から、それらを救う時に限られる。軍隊や政府の外科医は任命された健康部門の役人であり、兵役中に怪我や病気をする兵士の苦痛を緩和するため、薬物を始めとして、何でも使用する権限と任務がある。そして彼らの責務は、メスやヘラの使用にも及んでいる。外科手術の使用は科学的なものであり、外科学は偉大な科学に発展した。思慮深い人間の手にある時、それは言い尽くせない程の恩恵をもたらすが、偏狭な人間の手にある時は、死をもたらす呪いである。オステオパシーは生理学的見地に立つ外科学である。オステオパシーの外科医は「金属のメス」ではなく「血液のメス」を使う。そして、負傷や病気の四肢や臓器を、切除する代わりに、整復することで命を救うのだ。
 我々は可能な限り、メスや鋸の使用を避けることを望む。我々は辛抱強くなければならない。そして、生理学の卓越した知識を縦横に使い、さらに、過去から現在に至るまでの最も卓越した外科医達が、最高の仕事をした後の生理的活動の結果としてのみ、治癒がもたらされるのだという事を、いつも肝に銘じておかねばならない。我々は外科手術の熟練の技であるメスや鋸を使った切断や、他の妥当な使用法に熟達しようとは思わないし、望みもしない。むしろ、助けになるレベルの知識となるまで、人体の各部の形態や機能を理解することを望む。そして、メスを使わなければならない異常事態が起こらない程、熟達したやり方でその知識を適用するようにする。身体の中や表面にできる腫瘍や、膀胱や胆嚢の結石などは、本来自然が意図するように、循環の中にある間に溶解されるべき石灰などの物質の処理を行う機能が、何がしか損なわれた結果として出来るのである。もし、我々が、血管や排泄の経路の流れを良くすることによって、救助を成功させるならば、自分達が外科用の金属メスの代わりに、自然のメスを使う外科医としての能力を有していると証明できるだろう。腫瘍の様な腹部の肥大は、排液の経路がどこかで断たれている場合にのみ発生する。もし我々が腹部のどの臓器でも、その肥大を除去、または止めようと欲するのであれば、対象臓器における心臓からの動脈血流が最適になるように、身体を良い形に整えなければならない。それから、排液の導管を整え、神経を緩める。これで仕事は終了だ。今までメスは使われ過ぎ、自然へ向けられる信頼は小さ過ぎた。メスは目に見えるものだ。一方、自然は、理性の巧みな適用に対する贈り物としてのみ、その力を教えてくれる。ここ数年、特にそうだが、メスは錠剤よりも大きな収入源となっている。それに伴い、この高額な三途の川の渡し銭を支払える男女が、墓と天国により多く送り込まれることとなった。貧しい人々は腫瘍や虫垂炎に罹ることが殆ど無い。なぜなら、医者がメス無しで治療できると考えるからだ。私が見るに、一般的に裕福な人間程、死をもたらすメスの世話になるようだ。


第二章 人体を構成する幾つかの物質について

二百の骨
 オステオパシーの機械工達は、二百と六つの骨を人体に見出す。その一つとして、同じ関節に付き、同じ場所で同じ動きをする物は無い。其々が異なる姿形で形作られている。そして、それぞれの形は、それぞれの場所と用途を表している。そこには、一つの頭蓋骨、二つの顎の骨、七つの頸椎、十二の胸椎、五つの腰椎、一つの仙骨、二つの腸骨、二つの大腿骨、片足につき二十六個の骨がある足が二つ、三つの骨でできた腕が二本、それぞれ二十七の骨がある手が二つ、鎖骨が二本、そして二つの肩甲骨があり、その他へと続く。これら全ては、互いに異なっている。解剖学の知識があれば、人体における骨の用途、形態の違い、その数について、私が真実を言っていることが分って頂けるだろう。そして、それらの自然な場所と、さらに、生命機械がその機能を果たせるように、それらをどのようにして適切な場所に戻すかは、論理的思考力が教えてくれる。あなたが解剖学の授業で、骨格の全ての骨を、人体の要求を満たすように、関節する他の骨と調和する本来の場所へ、適切に配置できるよう訓練されてきたならば、それら全ての自然な結合と関節を学んだ時点で、あなたは、どんな骨が足りないか、または間違った場所にあるのか知るのに十分学んだ、と私は言うし、そう信じている。そして、この時点であなたは、脊柱、肋骨、四肢または、四肢や背骨、胸部のあらゆる場所の全ての骨における、良し悪しを論ずる批評的知識を得ているだろうと思う。
 あなたが熟知する証拠で武装せよ。それをまず、二百の骨の論究から始めるのだ。それらは全て形態と用途が異なり、お互いが強力な帯で堅固に留められている。其々は異なる形の留め具や帯である靭帯を有しており、その長短、厚さ、幅は、頭や顔、首等の動作や力を担う長骨や短骨、扁平骨にしっくりくるようになっている。そして、背中や胸の全ての骨、四肢の全ての骨、その他の骨には、それぞれの骨がそのソケットの中で動き、関節し、嵌り合うように、筋肉が接続している。

最初に骨を考えるべし
 ここで私が骨に関して話す目的は、論理思考の肥沃な土を、より深く耕すように、あなたを勇気付けることである。神経供給の力である、促進、抑制、運動、栄養の何れか、または、全身の筋肉や腺、臓器に「金庫」から運ばれてくる、どのような種類や質の神経供給であっても、その目的とする筋肉、神経、静脈などの肉体へと届くためには、骨の中や間の、門や出口を通って来なければならない、ということをあなたに知って欲しい。もし、これらの門が閉じ、筋膜や細胞システムの供給が絶たれ、筋肉の一つ、または筋肉の全システムへの血流のコントロールを神経が失ったとしたら、飢餓と痙攣が筋肉に現れ、筋肉は収斂し硬くなる。ここにマッサージ師の赤いマットと、神経と筋肉を抑制することに強く拘るオステオパスがいるとする。彼の哲学の領域における知識の欠如が、彼をただのマッサージ師の領域に閉じ込めてしまう。彼は偶さか良い結果を得て、自分の「揉み」が世界一だと考えるようになる。彼はあなたにこう教えるだろう「顏を下にして患者を俯せに寝かせ、ベッドの横に腕を垂らさせる。施術者はベッドの横に立ち、背骨と仙骨全てを見る。高い骨がここだとしたら、肋骨が脊柱と靭帯で接続している横突起の真ん中か、程近い側に、低く沈む場所がある。この肋骨と脊柱の間のこことそこを、指で強く圧して治療し、椎骨の横を上下に手で揉んでいく。」彼はあなたに、洗濯女が洗濯板でシャツを洗う時の要領で、強い圧を掛けて背中を揉ませるだろう。すると患者は回復するか、又は死ぬ。そして、このマッサージ師は、痩せた女性の皮膚や筋膜、菱形筋を彼女の肋骨に押し付けながら、自分の両手は良い洗濯板を持っていると考える。彼は自分が健康の洗濯屋で良い仕事を得たと思って、強く、速く、長く揉む。そして、女性の十二対の肋骨を、「母さん」がいつもソックスを洗っているのと同じ、良い洗濯板だと考える。だが、彼はその手を止めて、肋骨は筋肉に繋がっていて、筋肉で他の肋骨、そして椎骨の一部と繋がっているだとか、人間の手で大きな圧をかけて、背中を上下に行ったり来たりするよりも、良い結果が得られる方法があるかもしれない、などと考えることはない。だが、むしろ、彼は憶えておくべきなのだ。ずれたり、捻じれたりした椎骨と肋骨は探索され調整されなければならないということを。そうすることで、肋間神経の活動が完全に自由となり、筋肉が緩められて血液が解き放たれ、脊柱全体を栄養し、養うのだということを。つまり私が声を大にして言っているのは、脊髄神経と肋間神経の解放、即ち、骨による圧迫から運動、感覚、栄養の神経を自由にすることが、直接的な治癒となるということなのだ。
 では、骨をその自然な場所に位置させる手順を、我々はどのように進めればいいのだろう?また、骨格系における完全に正常な位置から大きく、又は僅かにずれている場合に、骨は機能的活動を妨げるという面において、何をしているのだろうか?まず、全ての神経のエネルギーは心臓と脳から発している。これら二つは絶えず神経エネルギーを蓄電するバッテリーであり、あらゆる神経単位の供給に備えている。これらの「貯蔵所」が神経系に要求することは、その義務となっている全ての機能を果たすために、必要とする力を受け取る経路を開いておくということだけだ。それ以外に我々は、何をか考えるべきか。脳と心臓がその活力を送り出す前に必要とされる状態は、開け放たれた扉と、繋がった命の電線以外に無い。脳と心臓はあらゆる生命力の供給を十全に受けるものであり、神経エネルギーのスムーズな流れを担保する以上の整復やマッサージ無しでも、神経の接続がある全ての場所にエネルギーを送り込むのだ、とオステオパシーでは信じられている。そして、このエネルギーの流れは、脳と脊髄の中枢神経を包む骨から出て来る前に、十全な供給が絶たれるか、制限された時のみ、異常に遅くなったり、早くなったりする。自然という調査官の完璧な目にも、神経経路が開かれたままになっていると認められる時、我々の仕事は終了する。神経の活動に自由がもたらされた時、血液と神経のエネルギーは正常に戻るのである。一方、努力から良い結果が得られそうにない時、施術者は徒に、自分自身と患者を疲れさせる必要が無い。彼は原因と結果を扱うべきであり、マッサージ師がいる低い次元の論理に戻ってはならない。後者の力は、キャンプの中で燃える理知のランプ無しで適用される。マッサージ師は一生懸命働いて、いくらか良い結果を得るだろう。だが彼は、何故、または、どのようにしてその結果が得られたのか、決められた手順をしたということ以外は、見当もつかないのだ。対して我々は、道を照らす理知のランプに身銭を切る。結局のところ、病気を治そうとする自分達の努力や、方法論について、徹頭徹尾、合理的理由を有すようになるまで、我々はオステオパスとしては、ただのシャンシャン言うシンバルか、音の出るラッパのようなものでしかないと、我々は思う。


 人間の身体の中で、最も魅力的な部分は脳だろう。そこは全てのエネルギーが集中する場所であり、全ての神経が一つに接続される共通のバッテリーでもある。その指示により、生命の工場は天然の原料を加工し始め、血液が形成され、まず神経、それから動脈と静脈のための食物となる。脳は神経活動とエネルギーを、神経単位によってなされる仕事のそれぞれの部類にピッタリ合うよう供給する。それらは、形質を構築し、血液が動脈の中で絶えず動いている様に、かつ、全ての場所から静脈を通って、心臓に戻ってくるようにしている。これにより血液は純化、リニューアルされ循環の中に戻ってくるのだろう。嬰児の腕にとれる早い脈拍から、老人のゆっくりした脈拍まで、全ての年代において、動脈の動作は普遍的である。年齢を重ねると、脈拍はゆっくりし、効率的に神経が熱を産生できなくなる。そのエネルギーが心臓の活動のための十分な電力をもたらせなくなるからだ。その高低に拘わらず、体温は押並べて電気的活動の結果である。プラスであれば発熱し、マイナスであれば悪寒がする。肺や皮膚、その他どのような経路でも、刺激物が体内に侵入すると、その結果として脳は高い電気活動を起こし、心臓の活動に変化が生じる。この燃えるような熱が発熱と呼ばれるのだ。変化がプラスであれば、黄熱のような暴力的なものとなり、マイナスであれば、腸チフスやチフス熱、その他病気のリストに連なるような低い程度のものとなるだろう。

思考は活動を伴う
 考えるという事は、確実に脳の活動を伴う。そのスピードを測ることはできないとしても、我々は思考を階層化できる。ある一定の仕事に携わる一人の人間が、その種の仕事に適するように、充分な早さで考えると仮定しよう。仮に、養豚に時間とエネルギーを傾注する、農場経営者を例にとる。ここで疑問となるのが、彼はどんなスピードで物を考えるのか、ということだ。自らの仕事に繋がる全ての必要な思考をするために、彼の頭の回転は分速どれ位になるのだろう。ここで彼の心の車輪が一分間に百回、回転するとしよう。ここで彼は自分の事業に羊の畜産も加えることにする。それは更なる百回転を要するとしよう。さらに彼は、輓馬の飼育にも手を広げる。これでさらに一七五回の回転が加わるのだが、彼の頭の車輪がブーンと音を立てながら、一分間に三七五回の振動しているのが目に浮かぶだろう。ここに来て、彼はさらに、三百回転の大工仕事を任務に加える。総計すると六七五回転だ。この数に、彼は保安官の責務と思考を加える。これは彼の車輪を千五百回ブンブン言わせるのに十分な仕事だ。ここまでで彼の頭は、二一七五回の回転をしている計算になる。今あなたの目には、甚大な物理的要求が、彼の脳が担っている精神活動に加えられているのが見えるだろう。だが、ここまで、彼はこれら全ての仕事をまずまず上手くこなしている。
 そして今度は、それまでの仕事に加え、様々な動物の毛皮を化学処理する、なめし皮製造の事業を彼はスタートさせる。この仕事はそれまでの精神活動全てと同等の緊張を与える事となり、結果として、彼の頭は一日中、分速四三五〇回転することになる。さらに、この精神的緊張に加えて、仕事の重責をこなすために、身体の活動も増加している。そして、ここまで来ると、あなたは彼の心と身体について心配し始める。ここに、エンジンや溶鉱炉、圧延機等の製造が加わるのだ。しかも、彼は全米党大会に代表として送られ、他にも、近縁の親族の死について考えなければならず、さらには、金融恐慌の際の債権証書が加わる。ここで遂に、彼の心は、抵抗勢力の下に崩れ落ちる。
 この大きな精神的振動の長期に渡る継続が、最終的に脳全体または半球の栄養作用を止めてしまい、結果、我々は、半身不随のケースを持つことになる。あるいは、それは脳の一方の半球が余りにも早く回転し過ぎて、神経エネルギーの源泉のどこかを障害してしまったか、大脳動脈の何れかを破裂させた。もしくは、運動の中枢か神経叢に、血栓が詰まったことによる。このようにして、我々は、連邦評議会や裁判所、工場、教会等、大きな精神活動の起こる場所では、殆ど何処でも、精神活動の過剰で人々が倒れるのを目にする。これに対し、奴隷や未開人は、どのような種類の麻痺でも、その犠牲になることが殆ど無い。かえって心の緊張や急激な栄養作用を知らないことで、そこから逃れることができる。彼らは良く食べ、良く眠り、長生きして、何より幸せだ。金持ちの発想で眠りが妨げられることも無い。これとは別に、物理的怪我によって、脳における運動、感覚、栄養の中枢が障害されることも間々あるが、部分的または完全な運動・感覚システムの停止という結果に変わりは無い。例えば、圧力を高めすぎたとか、または他の理由で、ボイラーを破裂させたとしたら、エンジンは稼働を停止する。過労の脳や体も全く同じなのだ。身体の一方が麻痺するという意味の半身不随Hemiplegiaという言葉を二つに分けると「半分の」と「打つ」になる。通常、半身不随(片麻痺)は脳内出血か脳梗塞の結果として起こる。それは他にさしたる症状も示さず、突然起こることもあるが、一般的には、脳卒中の発作が先行する。そして、意識が回復した際に、身体の片側が麻痺していることが観察される。麻痺は最初重篤だが、後々、程度に大小の差こそあれ、次第に消えていく。この片麻痺が腫瘍によってもたらされることは稀である。この場合は一般的にゆっくり現れ、運動神経を段々と新生物が浸食するにつれて、麻痺も段階的に増加する。ただし、出血や突然の麻痺の発現によって、腫瘍が悪化することもある。この段階的片麻痺は脳器質における慢性の軟化や膿瘍でも起こり得る。このようなケースで示される様々な病態や症状は、この組織障害の本質に対する我々の診断の助けとなるだろう。

脳脊髄液
 真実を知る能力を有する哲学者の精神を満足させるためには、推論の限界の外側から、自明の事実だけを伝えなければならない。彼が生命という深淵な命題の哲学を取り上げる時、如何なる代用物もその精神的要求を満たすことは叶わない。根拠の無い推論や、「〜のはずである」といった言葉を弄する輩は、相応しい分類に振り分けられるべきである。疑念の悪夢と迷信の暗雲垂れ込める、闇の川を下って行く流木という分類に。対して、真理の探究者は言葉少なである。そして、その言葉は、彼が発見してきた真理や事実を顕すためにのみ使われる。彼にとって、無邪気な人を喜ばせるためだけに提供される、暗唱する以外に全然価値の無い裏付けに欠ける長い言説や、無意味な記録は論外である。我々は形作られた人間を取り上げる。「形作られた」という言葉を使う時、我々は構造物全体が完成し、全ての臓器、神経、導管、すなわち、生命において使用、発見される全ての細かいディテールが揃っていることを意味する。
 我々が身体を健康であると看做す時、それは一部分ではなく、全体としての完全性と調和を意味しているのだ。ここまで、我々は愛と感嘆と称賛だけで満たされている。次に、哲学者にもう一つの観察範囲がもたらされる。そこで我々は活動と死の間における、高低あらゆるレベルの部分的または全体的な不一致を観察する。そこで、「何故」という題名の本がページを開きながら現れ、体のある部分における、感覚、運動、栄養、さらには、随意、不随意な機能的活動の失敗の原因を探究するため、我々の精神的労働を苦痛のレベルまで要請する。我々の精神は骨、人体、筋肉、筋膜、心臓から目的部分まで、その中をリンパとその内容物または血液が旅する通路、血管、神経、体中に全ての物質を運搬するための経路を探索する。特に、障害のある部分では疑問を抱きつつ。だが結果、そこには血液が心臓から充分に供給されていることが分かる。我々は調査を続けるが、満足な結果が得られない。そこで新たなページが開かれ、質問が現れる。何が謎なのか、また、それはどこにあるのか。動力や生命力のどのような要素、または質が抑圧されているのか。そして遂にある考えが閃く。それは、人体における既知の物質の中で、脳脊髄液こそは至高の要素の一つであり、脳がこの液体を豊富に供給しなければ、身体に障害状態が残ってしまう、というものである。そして、論理思考ができる者として彼は知るだろう。この生命の大河の水門を開け、干上がった土地を一度に灌漑しなければ、健康という収穫が、永遠に失われてしまうであろうということを。

脊髄
 私はあなたに事実を提供したい。アドバイスだけではなく、真理の法廷で唯一証言を許されてきた、純粋で長く維持されてきた事実を。一本の脊髄は一つの事実である。あなたは目でそれを観ることができる。だからそれは事実なのだ。あなたが見ることができる物、聞くことができる音、あるいは匂いや味は、この事実である。そして、一つの事実から他の一事を達成する能力の知識、即ち、何の目的で、どのようにしてそれを達成するか、ということが、哲学において探求される真理である。脊髄は、熟考のための、実在する事実なのだ。あなたはそれを見、感じることができる。これによりあなたは、脊髄の役割に関する知識の習得を始めるに当たり、その手掛かりとして二つの事実を得たことになる。脊髄は一本の真っ直ぐな円柱であり、ある未知の物質で満たされ、未知の力によって精妙に導かれている。それは精巧に造形・配置・保護されており、絶妙なアレンジで枝を出している。さらに、太い束や細い束があり、その土台である脳に、連続した繊維によって接続されている。脊髄は其々の場所に対して、その個別の目的に沿うように、枝を出して行き、その後、閃光のように神経束の枝を出す馬の尾の様な神経叢「馬尾」に終結する。そして、それは、生命活動という目的を執行するため作られた末端へと、液体と神経作用を運ぶ。生命の法則と神経作用の機序が、自然に因ってデザインされた仕事を実行し、達成している間、我々は、自分達の限りある心には理解不能な、この神秘を眺めているしかない。その後で、我々は調査の準備を始めることができるのだ。
 我々は、ここで動物生命に偏在する神経の原理を扱っているので、観察された事実に基づく重大な真理をあなたに教えておこう。週に一、二回以上脊柱を治療し、それによって脊髄を刺激することは、生命に必須の吸収作用が異常を起こす原因となる。そして、リンパ直下に広がる細胞システムにおいて、完全に成熟する前の生きた命の分子を中絶する効果により、死を運ぶ執行官となる。少しの間考える時間を作って、脊髄への刺激がもたらす様々な可能性、例えば、それが子宮にどのような影響をもたらすか考えてみれば、私が真実を言っていることが分かるだろう。そして、その真実を支える一連の事実を提供してきたことも。あなたの患者の多くは、解放される半年前にはすでに良くなっている。彼らはそれまで治療を続けるが、それは彼らが弱いからだ。つまり、あなたが脊髄を刺激し続けることによって、彼らを弱いままにしているのだ。さあ、ゴーグルを外して、論理の深奥へと永遠に降り注ぐ、太陽の光をその身に受けるのだ。
 ここは、この本の中で最も重要な章の一つである。なぜならば、ここで我々は、エンジニアとして、あなたに生命のエンジンを始動させてみせ、あなたはそれをその旅路へと、賢明に導いて行くことを期待されるからである。ここであなたの責任は二倍になる。あなたの最初の立場は、工程表と設計図を描くことができる設計士である。これらからエンジニアは個々の部分において、精巧に作られた機械がどんなものであるかを知ることができる。彼は、車掌かつ操縦者として、各部分とそれらの関係を知る。次にあなたは、修理工場の親方にもならなければならない。ここでは生きている人間がエンジンであり、自然がエンジニア、そしてあなたが熟練機械工である。この立場にいるあなたには、修理工場に運び込まれたエンジンの全部分を注意深く調査し、正常からの全ての逸脱を記録、そして、あなたの心の工場に置かれている完璧なモデルに、限りなく近い状態へと、それらの変位を調整することが期待されている。
 ここまで来たら、症例をもって説明を行うのがよかろう。事故か何かで首の骨が、曲がったり捻じれたりして、正常な位置から変位させられたと仮定する。すると我々には、頭と顔、そして首から上の全ての臓器、腺の血流循環に不調和の起こることが予想できる。そして、我々は頭部への血液や他の液体の不完全な供給を見つけることになる。同時に頭と顔の痛みを伴う腫脹が予想される。こうしてあなたは、頭痛、眩暈、視覚障害、扁桃腺の腫脹、舌の痺れ、視野・聴覚・記憶の欠損等の原因を得たことになり、ここにその他の頭部の疾病リストが続く。これら全ては、体液循環の異常が原因なのだ。加えて、各所からの完璧な排液も同等に重要である。それ無しでは、首から上の病気を快復させようというあなたの努力に、良い結果が伴う事は期待できないのだから。

神経とは何か
 神経はある一人の母親の子供であり、同僚である。その母親とは心臓だ。彼女は命に形を与える力の源であり、遍く全ての動物が用いる命の中心である。つまるところ、全ての生き物は、この母親の力が持つ、生命エネルギーの叡智を通して、形作られているのだ。彼女は、自らを支配する者の命令を実行する実体を、必要に応じて計画し、形作る。彼女は母であり、この身体における全ての神経の魂であり、かつ神経それ自体である。彼女は命令し、建築し、そして修復する。さらには、絶対的完全性に向けて、建造という自らの仕事を継続する。彼女は「無限」という学校の卒業生であり、その仕事には深慮と完璧さが求められている。同時にそれは、厳密な「無限」の意識によって、調査され、裁定され、受容または拒絶される。この「無限」の要求は非常に積極的であり、身体的完全性における彼女の全作業が、充分なレベルを満たせない場合の罰として、彼女の心の中に、絶えず死と拷問を掲げている。彼女がその地位に就いて最初に受ける「無限」からの命令は、自らの目の前に絶えず設計図を広げておく、ということである。自分自身の裸身を覆う為の肉となる繊維を作ろうと、その手を動かす前に、彼女は両目を見開いて、物理的心臓という物質的な家に入る全ての繊維を、注意深く綿密に調べ上げなければならない。初めに魂が宿るための物理的心臓が形成される。ここで魂は、人体、または全ての動物、魚、爬虫類、鳥に至るまで、その身体を建造するための設計仕様書の求めるところを実行し、監督する。工程表と設計図が克明に刻まれたレリーフが立つ、この命のオフィスが創立されて後、精妙に創られた生命の形成に、必要な物質を提供する工場の準備をせよと、彼女は上司から命令を受ける。彼女はその工場との間を繋ぐ、運搬のための支線道路を建設・運営する。この工場には、製造という仕事を遂行できるよう、充分な広さが与えられており、彼女のオフィスとは適度に離れている。仕上がった時、彼女はこれを腹部工場と呼ぶ。彼女は妨害を受けないようにするため、監督官を送り出し、オフィスの周りにフェンスや壁を作るよう指示する。これは心膜と呼ばれる。そして、心膜の外側には他の隔離壁が、付属物と共に存在している。この重要な局面において、バッテリー設備である脳、大幹線道路である脊髄、総本部である彼女のオフィスとバッテリーを繋ぐ、送電網としての神経を建造するため、設計仕様書を精読する。工程表と設計図に従って作業を進める中で、彼女は他の接続も構築し、肺、肝臓、脾臓、膵臓、腎臓、膀胱、生殖器、運動器である四肢等の骨組みを造っていき、胸郭や腹部という家を仕上げる。そして、彼女は忍耐強く作業を続け、魂という住人が快適に過ごせるように、求められる全ての便益を作り出していく。このようにして我々は、人体の全ての場所とその生命活動の原理において、心臓こそ全ての神経の母であると知る。彼女の命の小部屋から、全ての形質、繊維、生と動に機能する物質へと、彼女によって生命力が送られるのだ。身体の全ての部分が、この生命センターに完全に依存しているが、彼女自身は、自らが形と命を与えるどんな機械の支援無しでも動き、活動することができるのである。彼女は一組の繊維に生命力を通電する。我々はそれを感覚神経と呼ぶ。同様に通電されるもう一組は、栄養神経と呼ばれ、さらにもう一組の電線は、運動神経と呼ばれる。それら自体には運動も、感覚も、栄養も無い。生命の工程表と設計図が下す、命令執行の便益に供される、道路でしかないのだ。
 これまでの心臓の描写で私が意図する所は、これから示すもう一つの思考に、読者の注意を出来る限り向けさせる、という事にある。我々は、心臓が血液駆動と供給のエンジンである、ということはすっかり理解できている。そこで、この一文をもって尋ねたい。「ある神経の切断は、四肢の一つ、または体のある部分の麻痺をもたらすのか。それとも、心臓とその四肢との道路の途絶をもたらすのか。」腕神経が腕から脳に届いていることは疑いない事実である。もしこの神経が切断され、動作が失われたとしたら、その腕は供給源であるバッテリー設備としての脳から、切り離されたことになるだろう。この考えを押し進めて描写するため、心臓を果実の生る木と喩えよう。その果実は食するのに適し、見目麗しく、風味豊かであり、必定その母なる果樹の子供である。樹体、木葉、紅葉する色素や枝、そして果実は、つまるところ、母なる樹木がその各部分において体現する、エネルギーの物質的表現における違いでしかない。身体の全ての物質的エネルギーが、心臓から発せられ、受胎し、成長するのではないと決めつける、絶対的に議論の余地のない証拠が、我々にあるだろうか?我々は感覚神経、栄養神経、運動神経、随意そして不随意の神経について話す。そして、その特定の位置に着いて、ある程度説明してきた。メスと顕微鏡によって、我々は全神経システムが、一つの普遍的な繋がりを有していることを発見してきた。だが、脳には神経中の液体やエネルギーを造り出す、何らかの力がある、と我々に保証するものは、何も見つけられていない。我々は、頭にある脳、腹にある脳、肝臓の脳、さらに続けて、思いつく限りの部位で、全ての神経節に新しい脳を見出し、それについて話すことができる。だが、我々の観察において、唯一新しい発見は、心臓からのバッテリー設備だけだった。我々はその一まとまりを肺に、または脳に、同様に、胃と腸にも一つ、腎臓、子宮、膀胱、脊柱、四肢にも其々一つ、といった具合に見出すことができる。だが、それら全ては、平和と調和で満たされている時は「埴生の宿」を母なる心臓に歌って聞かせ、彼女が健康、平和、豊かさ、そして調和の嬉しい知らせをもたらすことができなければ、苦痛に泣き叫ぶ。しかるに、夜警が「全て異常なし」と叫ぶ時、歓喜は永続するのだ。

神経のパワー
 神経のパワーを区分するとすれば、五つの神経パワーが数えられる。彼ら全員の参加は必須であり、点呼が掛かったら、即座に応答し、絶えず働いていなくてはならない。これらの職人頭達の名前は「感覚、運動、栄養、随意そして不随意」である。彼ら全員は命の続いている間、全ての点呼に返事しなければならない。休暇の為に欠席することは、一瞬たりとも認められていない。仮に、「感覚」が腕から一時離れたとしよう。我々はそこに細胞や腺の寄付を受けないだろうか?すぐに、供給過多がこれに続くだろう。感覚が供給を制限し、建築家の使用目的には多すぎる時に、そう教えてくれるのだから。では次に、「運動」として知られる神経パワーが、一時損なわれたとする。すると、直ぐに、その欲求のために、飢餓が死の仕事を始めるだろう。
 今度は、仮に栄養の神経が、栄養のシャワーの運用に失敗したとしよう。我々は確実に食物を渇望して死ぬことになる。さらに、我々は随意神経によって、思った通りに、止まったり動いたりできるのである。しかし、ここまでで、五種類の神経の、其々、種々の用途についての定義は終わりにし、人間の健康状態から不健康に至るまでの、成長・肥大その他の変化について、原因を説明しよう。前述の五つの神経エネルギーは、生命体の五つのパワーとして知られているものであり、それらを賢く導くのが、オステオパシー医の仕事である。
 オステオパスは、自らが担当する全てのケースにおいて、審判を下す五人の証人を有している。彼は健康的な血液の供給と、その源泉に、よくよく注意を払わなければならない。そして、血液が余りに少ない時には、血液製造の動力システムをチェックする必要がある。これは確実に、腹部に対する、彼の最大の注意と学習意欲を喚起するだろう。もし血流が、大動脈、大静脈、胸管の周りにおいて、筋肉による締め付けで、妨害されているとしたら、血液が横隔膜を静かに通り過ぎることは、到底期待できない。横隔膜はしばしば、大静脈と胸管の両方へと引き下げられ、血液と乳ビが心臓に戻るのを妨害する。そうすると、健康な血液の要求を下回る程に、乳ビの量が減少し、腹部の浮腫の原因となるレベルまで、リンパ系の神経活動が抑制される。また、大静脈の圧迫による静脈血の停止が長引けば、静脈血は再生のために心臓へと入る時点で、発酵の段階となり、浄化され戻って来た時には、生命を正常な基準に維持するための供給が、少な過ぎるという事態に陥る。
 横隔膜が付着している、全ての肋骨の正常な位置に、細心の注意を払うことが、極めて重要である。第十一肋骨と十二肋骨は、その正常な軸受けから、遠く押しやられることがよくあり、結果として、端の軟骨が腸腰部まで落ち、脊柱と平行になっているのが見られる。そのような位置にある時、横隔膜はおよそ第四腰椎の位置で、大静脈に重くのしかかる。こうして、我々は間欠脈の原因を得ることになる。心臓は横隔膜の脱出によって、血流が貧弱になるのを発見する。同様に、大静脈も止められてしまい、横隔膜以下の全ての臓器と腺に、血液と他の体液の全体的な鬱滞が起こる。

血球の三つの状態
 この哲学の学校において、我々は、筋膜と血球の三つの状態について、熟慮するよう導かれる。完璧に健康な血球によって、身体は作られ、完全性がもたらされる。完璧な健康は、純粋な血液による当然の結果である。それはどのような奇形も作らない。一方で、病気の血球や傷害された血球もあるだろう。それらが筋膜から、案内人によって粘膜に運ばれると、集積し、繊維腫や癌のような異常成長、そして血肉の成長における、あらゆる種類の異常状態をもたらす。最初の段階で、完全性と健康な血球を持っていたことで、傷害された血球には、未だ生物としての生命が宿っている。この半正常な血球が粘膜に現れる時、それらは微生物という名で知られる形態を発生させる。それらは人体に自然な物であり、筋膜に由来する。そして、健康または生命力が減退した状態で、外来の生体と間違えられる。だが、それらは外部から身体に加えられたものではない。結果として我々は、膜性クループの病原菌とか、ジフテリア等の病原菌と呼ぶのであるが、それらは、この半生状態の生命体によって、粘膜に運ばれているのだ。そして、それらが互いに有する類似性から、気管や口腔、一般的に喉へと集積するのである。
 さて最後に、三番目の状態である、死んだ血球について考えよう。それが身体のどの部分からでも、筋膜から離れ、肺の粘膜に辿り着くと、単純に死んだ物質として、肺細胞の中に取り込まれる。そして、我々は結核や、他のあらゆる消耗性の肺疾患を得ることになる。ここまで、我々は筋膜のリンパ系について話していることを、理解してほしい。これから、病気と原因という主題について進めて行く内に、言及するが、この哲学によって、癌や他の肥大についての原因の説明が、我々に可能となる。そして、筋膜、動脈、筋肉、静脈または神経システムで妨げられた血液に由来する病気を、取り上げ、説明していくことで、我々はより精通することになる。筋膜に存在している血液の三つの状態を通して、我々は、良好な健康や異常な成長、身体的消耗のような状態について、筋の通った原因の説明ができるのだ。さらに、ここで我々は、相互に交差することによる神経線維の電気的妨害と、それがもたらす発熱や低体温という現象について、読者の関心を惹起しておきたい。

種々の体液
 もし千種類の液体が、我々の身体に存在しているならば、千種類の目的がそれらを要求しているはずである。そうでなければ、存在しないはずだ。それらが、どの様に、または、何故、生命の経済に存在しているか知るということは、それらがデザインされた用途を知り、其々がどこに現れ、そこを満たすのか知っている時のみ行動する人間の学問である。もし、ある物質に対する絶対的要求があるのなら、それが指令を求め、その指令に従い、活動する機会は、その準備期間や、目的地への途上で、妨げられる事があってはならない。その物質の力に全ての活動が依存しているかも知れないのだ。生理学的生成プロセスで合成される血液、アルブミン、胆汁、酸、塩基、脂質、脳漿、その他の物質は、在るべき場所に、タイミング良く、豊富に存在しなければならない。これにより、自然生命の法則は、活動するための充分な時間と、活力を得られるのだ。このように、他の全ての物が、タイミング良く、豊富に揃っていたとしても、活力が妨げられ、脳漿に対する要求活動が無ければ、失敗が起こる。それこそ、全ての動物を生き生きとさせるエッセンスなのだ。我々には、自然が人間に与えた生命の法則を信頼し、養う以上のことは出来ない。絶対的な秤と物差し、そして、鋭い選別能力を有する、豊潤な自然に選ばれ、その協力が得られるように、我々は自らの体を、真実の配列へと、整えなくてはならない。それにより、血液から命の炎まで、それらが、任務の為に整列し、永遠の心が発する勅命に従う時の為、身体の使用に必要とされる液体を作ることができるのである。

血液
 血液は人体の内部、その導管、水路、トンネルに存在する、赤色あるいは黒色の液体である。それが何で、どのように造られるのか、そして、心臓から出て行き、静脈を通って帰ってくる間、動脈の中で何をしているのかは、動物生命の神秘の一つである。我々は、それが何で成り立っているかを発見するため、分析を試みてきたが、結果として、それが本当は何であるのか、硫黄が何で出来ているか我々が知る程以上の事は、分らなかった。我々はそれが色の着いた液体であり、肉や骨のあらゆる部分に存在し、肉体を作り上げることは知っている。だが、「如何にして?」この質問こそ、我々が、知ることの叶わぬ生命の法を讃える所以であり、その法が、人体の各所に発見される、全ての形質を作り上げるという、神秘的役割を担っているのだ。それが何物で、どのように出来ているのか、何がその中に命として吹き込まれ、我々の観察で日々示される、建造の知性と力を与えているのか。それを理解しようとする我々の努力全てをもってしても、我々にとっては「聖書記述者」に「信仰の神秘は偉大である」と言わされるのと同じ、理解不能な不思議なのである。私は、我々が血液についてほとんど知らない、と言いたくはないが、実際のところ、それは真実であり、むしろ、何も分っていないのである。我々はその製造法について無知であるため、血の一滴ですら造ることができない。もし、我々が其々の構成物とその組み合わせを知っていたら、すぐにでも、大規模な血液製造機で血液を造り、購入者が必要な量を販売するだろう。だが悲しいかな。人類の知性を全て集めても、我々は一滴の血すら造れないのだ。それが何か知らないがために。だから我々は、その仕事の要件を充たす教育を発達させた部外者の技術が、製造を行っている間、静かに座って待ち、製造者が使用に供するようにと手渡す作品を、喜々として受け取らなければならない。ここで私は言っておこう。知性あるオステオパスとは、自ら進んで不変的な自然の法により統治され、ある場所から他の場所へとその液体を渡し、結果を信頼することに甘んじる者であると。  ハーヴェーが、その知力で、血液循環の知識を導き出した時、彼は命の大河の岸辺に辿り着いたに過ぎなかった。彼は、人体製造という神秘的仕事をする血の河の源流と河口が、心臓で始まり、心臓で終わることを見出した。彼の死後、この物質は他の人間に、何を以て、如何に造られ、どのようにして、全ての生き物を生かしておく命の媒体に成り得るのかを、熟考させることになる。自然の天分が、その叡智と命の意志を、真実の赤いインクで書き記すのを、彼は見ていたのだ。
 血液は心臓によって、我々の身体の全区域へと、秩序立って供給されている。我々は心臓からのどのコースを通ったとしても、そこから出る一つ以上の動脈を発見する。頭部へと向かえば、骨や脳、筋に対して、ふんだんに血液を供給するのに十分な大きさを持ち、対を成す、頸動脈、頸部の筋の動脈(cervical arteries)、椎骨動脈が見られる。そこを通る血液が、脳、骨、神経、筋、腺、膜、筋膜、そして皮膚を造るのである。そして我々は、静脈系にも、動脈系と全く同じ叡智を見る。動脈が全ての需要を供給し、静脈が全ての老廃物を運び去る。我々は建築作業と健康性の回復が、純粋性を作り上げ、維持するために、永続的な努力で一致するのを発見する。この二つにこそ、生命と健康の事実と真理がある。他のどんな臓器、または、体の場所に行ったとしても、我々は全く同じ法則を見付けることになる。最初に動脈による供給の法則、次に、静脈に始まる刷新の法則である。動脈と静脈のルールは、生きとし生ける物に普遍的なものであり、オステオパスはそれを知り、その支配に従わねばならない。さもなければ、ヒーラーとしての成功は有り得ない。さあ、彼の者を冬または夏の熱病と対決させよ。動脈の栄養機能、そして、リンパ系や細胞システムの中で、死んだ物質が発酵を始める前にそれらを取り除く、静脈の純化機能、この二つを維持する能力如何で、彼が患者を救えるか、失うかが決まるのだ。彼が、丹毒、赤痢、肺炎、グループ、猩紅熱、ジフテリア、麻疹、おたふく風邪、リューマチ、その他の気候と季節の病気全てにおいて、その治癒に失敗する時、彼は、動脈と、静脈に纏わる純化力の支援に対する、己の無知と愚かさを露呈することになる。
 肺や腹部、または、身体のどこであろうと、腫瘍の形成を導いているのは、動脈の供給と静脈の老廃物回収に対する、無知と不注意である。血液は何故、または、どの様にして刷新されるか、そして、腫瘍は何故形成されるのか。人々がこの法則に無知であるがために、現在、こんなにも多くの医者が、ベルトにメスを帯びているのだ。オステオパシーは、この法則の上に立つことに成功し、他のどんな医学校よりも、治癒をもたらしてきた。そして、その全ての資格者を経済的側面を含め、成り立たせている。私は、血液に関するこの項目を、オステオパシーの学生に向けて書いている。私は学生に、自然の真価を試験し、それが全ての需要に等しい法則であるかどうか知って欲しい。もし、そうでないならば、病気との戦闘において、彼は深刻な制限を大いに受けることになるだろう。

病気の定義
 私達が「病気」という言葉を使うとき、それは、体に不自然な様子を現わすあらゆる事象、という意味合いで用いられる。つまり、筋肉、腺、臓器の過成長、物理的痛み、麻痺、熱や冷え等、我々が、快適な人生に必要性を見出ださない事、全てである。私には、外科手術の有用性や、人間や動物におけるその科学的利点を貶める気は、更々無い。ただ私は、オステオパスの理知の目を、メスが完全に有用だということに対する、大きな「?」に向けさせたいのだ。肥大や病んだ骨肉の切除という事態は、往々にして、幾つかの偉大な真理に対する、人間の無知に起因している。もし、血液が内臓や腺に運び込まれ、適宜、運び出されなかったとしたら、蓄積は排泄の神経を止める程膨大になり、局所的な麻痺が起こるだろう。そこに栄養神経が腫瘍を構築していき、メスか死が解放するしか無いところまで、そのプロセスが続く。元々、その血液がそこに運搬されていなければ、大量だろうが、少量だろうが、そこには存在しなかったはずだし、単純にその仕事が済んだ後に、取り去られていれば、このような異常な生体が成育するための原料は存在しなかったはずだ。もし、腫瘍形成が片側に起こり、反対側には無いとしたら、何故それは、こちら側で、反対側では無いのか?静脈が血液を受け取って、運び去っていないことを理解するのに、大した努力は必要ない。そして、他にどんな状況も許されず、自然に対して正直であるというだけで、成長は自然の成り行きなのである。このように、人間の無知がメスを要する状況を作っているのだ。もし彼がこのヒントを受け入れ、血液の仕事が終った時点で、それが流れるようにしていたら、患者がギロチンにかけられるのを見なくて済んだだろう。その患者が初期に訴えていた痛みは、腎静脈か横隔膜以下の血管が、結腸の圧迫により結紮されていたことを、あるいは、何本かの肋骨が引っ張られ、横隔膜を大静脈や胸管の上に引き下げて、太陽神経叢または、他の横隔膜を通る神経を、興奮させるか麻痺させていたことを、彼に教えていたのだ。心臓と肺から出て、そこに戻る血液も、この横隔膜を通っている。
 患者の治療に呼ばれた時、オステオパスの心には、病気の原因や、血流を止めている妨害がどこにあるかが、大きな懸案となってのしかかる。患者は医師に「ここが痛む」「どれだけ痛い」「痛いのは何時から」また、「熱い、冷たい」を訴える。薬医学の臨床家は、それらの症状をカルテに書き入れ、最新の症候学の文献に当り、最終的にその病気を呼ぶ病名を推測することができる。そして、彼の祖父が聞いたことがあると言う、その祖母の家庭医がしていた「ノースカロライナの風土病」の治療と、相も変らぬ治療を彼は続ける。翻って、オステオパスの病因の調査は、機械的原因を探し出すことから出発する。オステオパスへ寄せる、推測以上のものへの人々の期待を彼は感じる。そして、原因に手を置き、自分が言うことを行動で証明しなければならないと考える。そして、薬医者の古臭い習慣における軟弱な芥屑によって、退くことはあり得ないとも。彼はその知識により、症候学の黴臭いパンを越える、自らの能力を示さなければならないのだ。
 オステオパスは明晰な頭脳と、良心を持ち、真理を愛する人間であるべきで、自分が知っていると公言する真理を見つけ、実行するまで、口を開かない。この五十年に亘る注意深い研究で、私は解剖学と生理学の分野を部分的に理解するようになった。そして、この廿年を、学生と臨床家の標準的指導者と考えられている、最高の著述家達が何を言っているのか、良く調べる事に費やしてきた。私は解剖を行い、世界最高峰の解剖学者の仕事に立ち会ってきた。そして動脈系の血液の配給全てを、最強の顕微鏡のレンズが、動脈の終端を映し出せなくなるまで、大小の血管に沿って、メスの後を追い掛けてきた。同様に、神経の中枢から終端まで、太いものから、無限に細いものまで、その繊維と、そこに巻き付く微細な神経の蔓をメスと顕微鏡で追い掛けた。最初、それは豆のように見え、右側に巻き付いている。次に、顕微鏡を回すと、左側に他の神経の一群が、まるでホップの様に巻き付いているのが見える。これらの神経は固体であり、円筒状で、層構造を呈し、リンパ系から動脈まで、あるいは、赤筋や白筋、筋膜、細胞性膜、横紋状または非横紋状の器官に広がる。動脈と繋がり、これと並走し、その始まりから終わりまで、その全回路に連続している。
 感覚、運動、栄養、随意、不随意の全神経系は、渇いたラクダの群の如く、全ての血液を消費するのに十分な数量を有しているように見えるし、哲学者をして、「動脈の仕事は、飢えた神経を養った時点で、完成しているのではないか?」という疑念を抱かせる対象となる。この自然によって活用される、人間建造の為の全物質を、神経が錬成し、送り出している、という彼の結論は、正当なものではないと言えるのか?もし、この哲学が真理であるならば、病気と対決するオステオパシーの戦いの為、自らを武装する者は、全ての航海から安全に寄港できる、水先案内と灯台を得たことになる。
 さて、今度は理知の目を心臓に向け、血液がその旅を始めるのを観察しよう。血液は大急ぎで出ていき、小さな動脈にあっても、決して止まることがない。それは常に動きの中にあり、全ての場所で、とても素早く、力強い。このような時は、それが建造に関わる証拠は見いだせないが、リンパ系の細胞やポケットにおいて、これらの細胞の中に、骨や筋肉になるよう意図された生命存在が形成され、リンパ系によって各々の場所に運ばれると分かる程、その流れが緩やかになれば、その証拠が見えてくる。もし血液が建造、栄養、そして、神経系全体の形状と機能を正常に維持しているのであれば、血液は果たすべき重要かつ普遍的責務を負っていると、我々は結論付けることができる。
 様々な濃度の血液や他の生命の液体は、一考に値する物質であり、建造や純化、活性化のためと、機械を動かすのに必要なエネルギーを供給するため、それらは身体の中を流されている。動脈や静脈、導管、神経、スポンジ膜、筋膜、筋肉、靭帯、腺、皮膚をこれらの物質が移動するのに要する、様々なエネルギーについて、我々は論究し、それらの異なる濃度から判断し、それぞれの需要に合致するように、その量を調整しなければならない。
 肺で筋膜に浮腫が起きる程、寒冷または他の原因で、静脈血が停滞したとしよう。心の目で見れば、肺の筋膜の神経が、著しい興奮状態にあり、静脈を筋膜で締め付けるのが見えるはずだ。それが、心臓への血流を妨げる原因と結び付いているかもしれない。このような抵抗により、静脈が閉じられると、その抵抗が取り除かれるまで、血液が流れることは出来ない。畢竟、鬱滞させられた液体の通過を許容する程、充分に水路が開放され、解れる前に、神経の苛々の原因は発見、除去されなければならない。この妨害の原因を除去するため、我々は肺、または身体の他部分の神経供給に向かわなければならない。そして、自分達の注意を神経興奮の原因にのみ注ぎ、最後まで調査を執行する。もし、呼吸が速すぎ、忙しいときは、先ず運動神経に、それから感覚神経に注意を向けなさい。それらを通して、動脈の運動神経の興奮を静め、調節するのだ。興奮が減じると直ぐに、運動と感覚の回路が十全となり、静脈の抵抗が取り払われ、動脈の労力は減る。運動の妨害刺激の解消で完成された動脈・静脈の回路が、この電気回路の完全性を証明する。正常が苦痛に取って代わると、高熱は消え去り、快復が結果となる。

筋膜
 私の知る限り、身体にある場所で、筋膜に匹敵する猟場は無い。他のどんな区分よりも、筋膜の研究を追求することが、充実した黄金の思想を心の目に映すと、私は信じている。そうは言っても、一つの部分は他の各部分と同等に重要かつ有用なのであり、どの部分と雖も、蔑ろにされて良い訳ではない。
 我々は筋膜を見る度に驚かされる。生と死において、筋膜が果たす役割は、我々が解決すべき最も大きな問題の一つである。筋膜は各々の筋肉、血管、神経、そして体にある全ての臓器を覆い、神経、細胞、そこに出入りする脈管のネットワークを持つ。これは互いに交差し、生または破壊に関わる液体の分泌・排泄作業を遂行する、何百万もの神経センターや繊維で一杯であることは疑いようがない。その活動により、我々は生かされ、その失敗により、我々は死ぬ。筋肉は活動的生命において、各々の役割を果たす。あらゆる筋の各々の繊維は、その柔軟性をこの生産的な「隔膜の洗濯屋」に頼っており、それが、隣り合う筋・靭帯全てに、摩擦や軋み無くスライドするのを許している。それは繊維を潤滑するだけではなく、身体の全部分に栄養を供給している。そこには神経が豊富に走っているため、いかなる血肉の原子も、そこからの神経と血液の供給を得られぬことはない。
 動物形態における筋膜の使途を解明するのに、この人生は明らかに短すぎる。それは自らの最も微細な繊維すら貫いて、スライドの滑らかさを提供・補佐している。心眼で、この極細の神経を追跡するのだ。筋膜を見て、あなたは驚嘆の声を上げる筈だ「人間、そして、陸と海に棲む、全ての生きとし生ける物に普遍の存在である」と。
 筋膜が顕す不思議に、命の美しさの発露を見るとき、他にも偉大な事実が、歓喜と称賛と共に心を訪れる。我々人間の魂は、純粋な命の水と共に、その身体の筋膜に宿っているのではなかろうか。それは、理知に飢えた人間の心に、思考の弾丸を的確に撃ち込み、生命の枠組みが、筋膜の中に見出だせる、と感じさせるだろう。命が逗留する住処として。彼はそこに、生命を妨害するあらゆる原因を見出だせるとも感じる。そこで、病気は病と死の種を萌芽させるのだ。
 この主題をメスと顕微鏡で探索する解剖学の学生として、彼は、この筋膜が、全ての筋肉、腱、繊維に伴い、それを包み、かつ、その最小の繊維まで、それを隔てているのを、容易に発見するだろう。全ての臓器は、この物質で覆われているが、場所によっては、特別な名前を有していることもある。ここまで、私は、筋膜の普遍性について、長々と書いてきたが、それは偏に、この連続した物質は、あらゆる液体を受け取り、放出するために、いかなる場所においても、自由でなければならず、毒性の死んだ液体によって、健康が害されないように、動物生命の維持と、不純物排泄のため、適切にそれらを運用するという考え方を、読者の心に印象付けるためである。筋膜の普遍的広がりについての知識は必須であり、病気の原因を探求する者にとって、最大の助けとなるものの一つである。筋膜とその神経は、彼の関心を要求し、それらに対する彼の知識が、成功の大部分を左右することになるだろう。
 オステオパシーの学生は、束の間でも立ち止まり、同時代の医者達が皮下注射で、皮膚を“耕す“のを傍観するのだろうか。彼らはそれを皮膚の下へと射し込み、モルフィネや他の毒性の薬剤を、浅筋膜の神経センターへとばら蒔く。彼はこの方法で、まるで小脳に毒を注入したかのような確実さで、身体のあらゆる神経を麻痺させる。毒が脳に放たれ、即座に死をもたらす程には直截的ではないにせよ。彼が、頑迷で無知だとしたら、彼は一つの場所において他の場所と同様、確実に死の原因となるだろう。毒の効果は筋膜の神経と繊維によって、全身の全ての繊維へと運ばれて行くのだから。
 筋膜を扱う時、あなたは一般会社法の下、脳の支店と仕事をしていることになる。では、これらの支店に、同じ敬意を持って接しないという法があろうか。薬医者は筋膜という媒体を通して、効果的な仕事をする。そうであるなら、あなたも、筋膜にある間の液体の遅延と鬱滞のせいで生成される致死性の物体から、身体全体を刷新するという意思と有効な能力で、促進し、全ての病気のシステム全体を浄化してしまう ため、リラックスしてこれと契約を結ぶべきではないか?
 我々の科学はまだ若い、だが、生命を統べる法は、これまでの全ての時間と同じ位古い。それらの多くは書き記されたことも、実践されたこともないのを、あなたは発見するだろう。だが、このような発見は全て、神のように古く、命のように真実であり、永遠と共に生まれた真理なのだ。
 筋膜を研究する我々は、それが全身を占拠していることを、憶えておかねばならない。そして、局所的に障害された部分を見つけたならば、その区域を支配する神経叢を通して、その部分を解放できることも。あなたの注意は、その部分の全ての神経へと、向けられなければならない。血液はその部分へ、粗暴に流されるべきではなく、栄養の需要に合うように、優しく流されなければならない。そうでなければ、弱さが強さに取って代わり、栄養神経の利益を損ねてしまうことになる。例えば、肺の運動神経の供給が活動を止めたとしたら、肺も活動を止めるだろう。それが半停止だとしても、肺は確実にそれに従う。ここで我々は論理思考しなければならない。もし、我々が肺を解放することに成功したとしたら、そこには全ての種類の神経が見付かることになる。肺が動くなら、運動神経が見付かるだろうし、感覚があるなら感覚神経が、栄養により成長するなら、栄養神経があるだろう。意思によって、またはよらずに動くなら、随意と不随意のシステムが有ることになる。
 血液供給は運動神経のシステム下で行われ、栄養神経の利便性のため、適所に配達される。心臓の連続的鼓動の各々において建造作業が続くように、感覚神経が動脈血の供給量を、必要な量に制限している。それは肺の活動も規制し、血液の純粋性を維持するに足る量の空気を受け入れ、排出させたりもする。これを出発点として考えると、呼吸数の異常な増加がしめすような、大きすぎる運動神経の活動があるなら、我々は肺の感覚神経に注意を向けることにより、呼吸を減じるよう示唆されたことになる。これにより、毛細血管の終端の先で、過敏性により血液を受け入れていなかった静脈を、血液が通過できるようにするのだ。興奮が減じると直に、静脈の神経繊維はリラックスし、再生の神経の活動を抑える程の量が、肺に留置されていた、静脈血の通過を許容する。その活動は、まず筋膜の区域、続いて動脈・静脈循環で、異常な時間滞留させられていた、全ての液体を排出する、筋膜のプロセスに伴う活動である。以上から、何が為されなければならないか分かった筈だ。水路として静脈は、意図された場所に栄養供給した血液を、直に全て回収しなければならない。でなければ、遅れによる窒息で、血液の生命力は失われ、その場所に血液を通すため、より大きな動脈のポンプ力が要請され、毛細血管が破れ、粘膜に血液が留置され、最終的には、周囲の圧力により、筋膜の神経が力を失うことになる。さらに、感覚神経を通して、既に大きな努力を強いられている心臓に、異常刺激が送られる。
 生命はその基本的な栄養の法則を筋膜に見出だすのだから、長く脊柱を貫き、全ての神経を脳へと接続するコードによって、我々はそれを供給の偉大な源泉へと繋げなければならない。そのコードは何百万もの神経を全ての臓器と部分に伸ばし、運動と感覚の要素を供給する。そして、これら全ての神経は、筋膜という、偉大なシステムに向かい、そこに終るのである。
 我々はコップを深く、更に深くと、思考の海に沈めて行くことで、生命と健康の解法が、精神のサーチライトが照らす、我々の望遠鏡の視野に近いことを感じ始める。そして、旅人が余程の馬鹿でない限り、間違えようのない位ハッキリと、健康への道が書かれていることを発見するのだ。
 病気は気体・液体・固体の微粒子として、蒔かれているのは確実だ。とにかく最適な場所が、病気の活動原則にとって第一の条件となる。次に、発展が始まるまでに好反応な栄養素を入手しなければならない。こうして我々は、活動と食物によって、胎児の生命に存在を育む身体の部分を動物の中に見出だすのだろう。理性は第一に、人間の発生についての規則に、我々の心を向けさせる。思考の根拠として、胎動の微粒子、強力な顕微鏡の助けを借りた時のみ見られる生命の萌芽、生まれ来る存在を、我々は見る。それは白いフィブリンの微粒子、または、筋膜の分離した小片のように見える。それは筋膜の粒子として親を離れ、生き、育つため、友好的な環境に住まわなければならない。そして、血液やリンパに見られるような食物で、養われる。神経が発生させるエネルギーも考慮されなければならない。神経、血液、そして白血球が最も備わっている筋膜に、サポートと成長のために微生物が住み着くと予測するのが、唯一理に適っている。

妊娠の描写
 父親の筋膜システムを離れた後の、微粒子を追跡してみると、それが子宮で成長するのが見て取れる。子宮はそれ自体で、ほぼ完璧な存在の臓器であり、全ての筋膜の母、中心、そして起源である。それは、誕生までそこに棲み、成長し、筋膜の命を与える力の産物として、完成した存在を現す。
 筋膜は人間に普遍的なものだ。そして、現代世界に大きな疑問として突き付けられている。それは「物質としての人間」という絶対的証拠を哲学者の心に運び込む。それは病気という征服戦争において、命の敵が占領する砦であり、その戦闘を完遂する所である。だが、そこには「徹底抗戦」という黒旗が翻っている。交戦は何年もの間続くかもしれないが、確実にいつかは、その敵が人間の全ての砦を攻略する。降伏を遅れさせるには、時を得た支援と栄養の供給が与えられる他ない。それは、人間と他の全ての生き物に受け継がれてきた、強力な命の軍事力であり、人間や動物の筋膜を通して活動しているのだ。

リンパ系
 生命の学徒は身体の各部を理解し、その用途と、身体の他の部分との関係性を学ばなければならない。我々は血液の用途と、神経の力に重きを置くが、それらがリンパ系よりも、生命にとって重要だというどんな証拠を、我々は有しているというのだろう?もし、その証拠が無いのなら、この普遍的灌漑システムのために立ち止まり、その動物生命における偉大な使命を学ぼうではないか。リンパは身体のどこに存在しているか?むしろ、どこに発見できないだろう。どんなスペースであれ、リンパ系の神経、または、分泌・排出の導管へと接続するのに、狭すぎるということはない。リンパ系システムは全身において、完全かつ普遍である。リンパ系が神経、血管経路、筋、腺の全て、身体の全臓器、脳から足の先まで分布し、水様液で満たされているのを見たならば、それらの用途について、一つの結論に達せざるを得ない。それは、リンパ系が身体の不純物を溶け込ませ、運び出しているということである。それはまず、排出システムで最細の導管を通れる程の濃度に、物質を混ぜ込み、減少させる。そして、この方法で、身体を固体または液体の留置物から解放し、栄養を残すのである。
 恐らく、人間の生命維持機構の内で、リンパ系について知られていることは、他のどの部位よりも少ない。この区域に対する無知は、往々にして、術者の無能と同義となる。リンパ系には目と同等か、それ以上に繊細な神経が通っている。目は組織化された結果であり、リンパ系はその原因である。そして、そこにこそ生命の根本原理がふんだんに存在しているのだ。どの様な構成要素であろうと、不完全な形でリンパ系を離れ、身体の各部と結合することは出来ない。そこで構成要素は形を与えられ、何をどの様に行うのか教えられるのだ。脳の液体は、どの内蔵に供給されるどんな液体よりも、上質な物である。対して、激しく扱われ、大雑把に形成される器官には、より目の粗い建材が必要になる。リンパ系は必要な物を準備し、揃え、建設者に送る。彼は自然の計画書と設計図に基づき、全てを整え、建築を行う。自然は本当に必要な物を産み出す機構を創造する。そして、その合致が、至高の精神の欲するものを産み出すのだ。
 リンパ系は脊髄及び神経全てと、普遍的かつ緊密に連結しており、その全ては「脳の水」を飲む。リンパ系の神経の活動により、胆汁、糖、酸、塩基、骨、筋、さらには、より柔らかい部分等を産み出すのに必要な、品質が集められる。これにより、構成要素は変換され、留められ、集められて、洗剤や塩、糖等の動物生命の維持に必要な全ての化学物質が産み出される。そして、化学的、電気的、環境的、気候的影響による、崩壊と死から存在を保持しているのだ。このことから、我々は自分達の治療の全てにおいて、リンパ系を傷めてはならないと、納得させられる。それらは命を与える中枢となる器官であり、我々は、知性と優しさをもって、それを扱うのが相応しいとされる。それらによって、萎びた手足や臓器、または他のどんな部分でも、我々が再建、または、建て直しと呼ぶものを受けられるのだ。この厳密な手順が無いのなら、患者はあなたを失敗作として、その前を素通りし、命と金を無駄にしないようにしなければならない。あなたがこの知識により、リンパ系を扱っても良いと認証されるまで。
 既知の事実という大平原に乗り出し、思考してみたまえ。そして、完全に衰弱した人間について、その原因を示すのだ。自然が義務として与えた仕事を行い、完遂するチャンスから、全てのシステムが切り離された時、我々は衰弱する。運動神経が全ての物質を届け、感覚神経は需要と供給を判定しなければならない。栄養神経は時間通りに作動し、全ての場所に充分なエネルギーを供給し続けなければならない。そうでなければ、失敗が起こるのは確実だ。我々は、リンパ系、肝臓、腎臓に対する自然の要求を、決して忘れてはならない。混乱という結果を招かぬため、それらは常に働いていなければならず、それらの職務におけるパフォーマンスの低下は、それらが担う生命機能の一部が欠損する事を意味しているのだ。

普遍的広がり
 ダングリソンのリンパ系の定義は、非常に広範囲に及ぶ包括的なものであり、我々オステオパシー医にとって、正鵠を射ている。リンパ系の腺の個数は、数えきれない程膨大であり、人体全部を通して、普遍的に行き渡っていると、彼は説明している。さらには、それが命ある水と、動物生命の維持に必要な、その他の液体を含んでおり、静脈系と並走し、身体の他の箇所よりもそこに豊富であること、それと同時に、全身から心臓へと血液が運搬される途上で、その内容物を血管内へ放出することも説明している。それらが栄養の中枢となった上で、支持層の濃い所から薄い所まで、栄養分を薄めるため、水を集め、体の分泌と排泄システム全体に流し、それによって、排泄管を通じて、第一に栄養、第二に刷新のための物質配給に関わるチューブ、導管、血管を、栄養分が容易に通過できるようにしている、と考えるのは妥当ではないだろうか。ここで疑問が浮かぶ。この水は何処から流れ来るのか?これが我々を肺へと帰るよう導く。我々の体に蓄積する不純物を洗い流すために、自然が用意した救命の水の噴水があるにも拘らず、人間が熱病の炎で命を落とし、悪くなったり死んだりしたリンパやアルブミン、その他の自然の力を弱める物質、正常な純粋性まで浄化されるのを邪魔された血液によって、窒息死するのを見るのは、偏に我々の愚かさゆえ、と言えないだろうか。もしそうなのだとしたら、我々はより深くリンパ系の救命力を学習するべきだ。リンパ系が死において黒く、生において健康的で赤いのを、見出すように。
 全ての病気において、リンパ系全体、体の他の部分、脳、肺、腎臓、肝臓、そして筋膜で我々が遭遇するのは、死んだ血液、鬱滞したリンパ、そして、半死半生または完全に死んで、分解しているアルブミンである。この時、身体全てが、本来リンパによって洗い流されるべき、不健康な物質が溶け混んだ、混乱した血液で溢れている。ここで蛙の表在リンパ節を見てみよう。全部分が心臓同様、規則的に動いているのが見て取れる。それら全ては、生きている限り動き続ける。排泄経路は、身体にとって最早無用となった物質を受け取り、送り出しているが、体を造るというプロセスを支えるために液体を運ぶという目的以外に、何の目的があってそれらが働くだろうか。今や我々には、この素晴らしいリンパ系のシステムが、建設と浄化の源泉であることが分かっている。もし、それが真理であるなら、常にリンパ系を正常に保っておかなければならない。そうでなければ病気という形で、混乱した自然を目にすることになるだろう。我々はリンパ系へと向かう時、生と死の源に直面しているのだ。
 身体のどこであろうと、リンパ系の一部、またはその鎖と直接繋がるのに、小さ過ぎる、または、遠すぎるということは無い。オステオパシー医は、自然な治療法、そして、それらがどのように供給され運用されるかを検討する際、考えなければならないことが山ほどある。病気というものが、身体の一部または全てにおける、残留物の停滞の結果であるのなら、理性は我々を、そのような残留物を溶かす溶媒の調査へと導くだろう。この残留物が血液や他の液体が機能的に働くのを妨げるのだが、我々はこの溶媒によって、生命活動を阻害し得る全ての物質から、身体を純粋に保つことが出来るである。リンパ系を調査し、それが身体に必須のものであることを発見するとき、我々はその働きが、全ての腺における豊富且つ普遍的な供給に等しいことを、受け入れなければならない。ここで卑近な喩えを用い、病気が、命の車輪にこびりついた砂に過ぎないのだとすれば、我々は、自然がこのリンパという方法でその砂を洗い流すのを、目にすることになるだろう。この喩えを敷衍すれば、肺炎は肺という車輪に詰まった砂なのであり、我々はそれを洗い流さなければならない、ということになる。そして、そのための水を得るのに、リンパ系以上に最適な所は無い。それらはまるで、燃えている家の全ての窓へ、放水ノズルを向け、準備を整えた、消防隊の如くであるのだ。

「治療」の定義
 「治療」という言葉には一つの意味しか無いと、私はここで強調しておく。それは、自らが正しいと知り、それに基づいて仕事をするということだ。私はヒントを与えるだけにしよう。既知の五種の神経、即ち、感覚、運動、栄養、随意、不随意の神経が、妨害されない状態の重要性というヒントを。それより先に行くことには狼狽を覚える。どの様な病気の治療であれ、これらの神経全てに、永続的調和を維持するよう努めなければならない。もし、あなたが自身に、少しでも論理思考を許すならば、循環する液体の不自然な蓄積による部分的、全体的な苦痛を報告するため、感覚は常に警備に当たり、正常でなければならないと知るだろう。全ての神経は活動し、その役割を果たすため、自由でなければならない。整備主任としてのあなたの義務は、エンジンが完璧な状態に保たれていることにより、皮膚、筋膜、筋、血液、または、命を維持し、我々が病気と呼ぶものの原因となる残留物から身体を回復させる全ての液体、それらを支配し、供給する神経、動静脈に、如何なる機能的妨害も起こらない、ということを知ることにある。
 オステオパシーの知識が、それをしっかりとあなたに教えてきたはずだ。神経・血液供給と深く親しむことにより、あなたは病気の隠れた原因という知識に辿り着き、自らの治療の帰結を成功へと導くことができるのである。これは化学の知識によるものではなく、人体解剖学の知識、何が正常で何が異常か、そして、何が原因で何が結果かという知識に依っているのである。腎臓や膀胱のトラブルを、まず、腎臓付近で脊柱のどのポイントに痛みや張りがある、という患者の情報から、疑うことはないだろうか?この知識によりあなたは、脊柱が正常か否か、確認のための探査へと招集される。ここで、正常な脊柱に馴染んでいれば、異常な形を捜査し、それが小さなものであったとしても、脊柱関節の正常からの僅かな変位や、ズレによる腎神経阻害の原因を発見したら、腎臓、膀胱、またはその両方の病気に注意を向けなければならないことに気付かされるだろう。もし、これが注意を払うに価しないと思うなら、あなたの精神は、このような死を導くことになる微細な兆候を観察するには、余りに未熟過ぎるということになる。そして、初期のブライト病のケースで、あなたの技術は大した役に立たないだろう。あなたの人体への知見は、人体の工場において、最も素晴らしい化学的結果が、あなたの人生で日々、毎時、毎分達成されていることに、あなたの心の目を開いてこなかったのだろうか?その工場は胆石や膀胱結石の生成を許容し、整然と運転出来るのか?人体は、全ての不純物を洗い流すために必要な液体や酸、塩基等、全ての物質を生成しないのか?もし、間違いを犯さない神が、必要な設備を整えたのだと考えるなら、自らもそのように確信し、その地平に立つべきだ。
 思考する世界に対して無知を晒さないためには、そうする他無い。もし人体に、精神が知覚し得る最上の化学工場を見出だすなら、その営みの理解を一層深めるため、更なる時間をこの主題に費やしたらどうだろう。そのような知識無しに、患者を治療する余裕が、あなたにはあるのだろうか?文明全体に危険な程蔓延している、根拠の無い悪夢を産み出したのは、この神の法に対する無知ではないのか?生命、精神、物質をこのような様式で組み立てて、組み合わせ、物質という要素と、精神の世界を連結する鎖とした神の叡智の処方よりも、致死性の薬物のほうが、より効率良く病気を一掃できることが証明されるだろう、という悪夢を。深みにある哲学者は、自然が、快適さや長寿のための全ての品質を、人間の中に備えたと結論する以外無いのではないか?それとも彼は、その致死的薬物を飲み、知識の磔に一票を投じるのだろうか?


第三章 身体の区分

医者の使命
 医師の目的は健康を見付けることである。病気は誰でも見付けることが出来るものだ。彼は見張り達を集めて症例検討会を開かねばならない。そして、彼らが居眠りしていないか、死んでいないか、持ち場を勝手に離れていないか、それによって基地に外敵の侵入を許していないか、確認するのだ。彼は全ての持ち場を訪れねばならない。さらに、巡回する前に、全ての持ち場がどこかを把握し、自らが監督する供給の種類が、弾丸や砲弾なのか、食糧か衣服か、または、武器なのかを、また、部隊と区分に役立つのは何なのかを知っておかなければならない。

五つの区分
 人間とは、なんと大きな研究テーマであることか。表面的にならぬためには、人体を二つ以上の部分に分けねばなるまい。頭と首は全身と関係、連結し、それ自体が体の一部となっているが、それらの身体に対する重要性の理解には、そこを通過し戻ってくる物質と、全ての形体に対する、徹底的かつ特別な知見が不可欠である。そして、脳の機能を知らずして、その用途を知ることは出来ない。従って、全体的な理解に馴染んでおくことが、絶対的に必要であり、そうすることで、我々は自分達の治療を統率出来るのだ。そして、その治療とは、調査を行い、頭を首に対して、真に正しい位置に調整するだけである。首はその接続部で、まず頭と、それから、胴体と接合していることで、そこに対する知識は自ずと倍加する。何故なら首は、その組織化された機構を通して、胴体から液体を受け取り、脳へと運び、逆に、機構の全てを用いてそれを胴体や胸に運搬び、心臓でその下から来る栄養素を与えられ、生命維持機構の区域に与えられた責務としての準備のため、同様に肺へと運搬される。我々は頭と首、そして、それらが持つ肺との関係について、良く知る必要がある。肺こそ、一般的な使用に供されるため心臓に戻る前の液体に、偉大な刷新と活性化を行うところである。
 心臓と肺、その両方の仕組みと構造、どこでどの様に、それらが形と力、そして、それらの構造に入っていく物質を得るのか、また、この動力維持機関がその仕事において、どの様にサポートされているか、それを熟知することが最も重要である。胸部と肺を正常な健康状態に保っておくためには、それらがどこで、どの様に、または、何故動いているのかを知らねばならない、ということが我々には分かっている。そしてその知見が、頭部とその中に所属する物と、エネルギーが運搬される全ての幹線道路が発見される、首の形態と機能の熟知によってしか得られないことも。
 これらの区域に対する、充分な知識を修得したとしても、それは我々が新しい、広い土地へと、覚束無く踏み出す準備が出来た、ということに過ぎない。血液や他の液体を受け取り、人間機械を建造するという責務に適合させ、ガスや血液、その他の物質を受け取らせ、建造ための生きた小体となるよう、決まった様式で連結させるという、連続した一体性と共に。そしてそれは、筋肉を作り上げるだけではなく、胎生期の全ての段階を通じて、一つの細胞から、原子に原子を加え、全ての臓器、腺、物質を備える、完全な形体の人間とする能力でもあるのだ。頭部から腹部にかけて、人体を研究することによって積み上げることができる、最上の知性の大いなる重要性を、我々は知るべきである。そこに我々は、命に属する生きた不思議の都市を目の当たりにするのだから。ここで第一腰椎から始まる、大いなる真理の未踏の大地が、我々の心の前に広がる。そしてそれは、どの程度の怪我が容認され、修復の力を越えないのか、我々に示唆してくれるだろう。腹と骨盤の区域として理解されている第四、第五の区分において、負傷や転倒、刺突または、他の怪我が、何れかの神経、静脈、動脈を障害したとしたら、自然はどこまでその侵犯に耐え、正常な容態を保っていられるのだろうか?このような怪我は、痔核、白帯下、月経困難、子宮筋腫、他の形態の腫大、潰瘍、腎臓のブライト病、胆石、膀胱結石、肝肥大、脾臓の病気、黄疸、浮腫、静脈瘤、その他、ここで列挙するスペースのない数多の病気、これらを産み出す程の機能不全の原因とならずに、どこまで進行することができるのだろうか?この重要な疑問に対する、人間の理解不足が、この問題を一か八かの法則で解決しようという、症候学として良く知られているものを産み出し、それに頼る余地を与えてしまったのではなかったか。自然は、機械の知識で、その機械を調整することにより、原因を突き止めるという、より信用性の高い体系を提示してくれていないのだろうか?それによって原因が取り除かれ、結果が変えられる。
 この検査において覚えておくべき、オステオパスのための五つの観察ポイントで、全身を容易にカバーできる。裏を返せば、これらの一つでも見逃せば、身体におけるどんな病気の検査も、成功させることは叶わない。ただし、局所的負傷は、この法則の例外である。尤も、局所的損傷であっても、往々にして、全体的影響を及ぼす。ここで、転倒により腰椎に衝撃が加えられ、関節の幾つかが、前か後ろ、または横に押されたとしよう。腰椎は障害され、浮遊肋の一つか二つが、腰神経に対して引き下げられ、横隔膜は逸脱、弛緩し、腹大動脈、大静脈、胸管は圧迫されている。我々はそこに、動脈、静脈、リンパ系の循環と、横隔膜以下全ての臓器に、停滞と混乱をもたらす原因を得ないだろうか?そして心臓の問題も当然発生するだろう。線維腫、月経痛、便秘、糖尿病、消化不良、その他、悪い血液が原因するあらゆる身体的問題も、当然これに続く。血液、リンパまたは乳糜が、横隔膜の下に長く留まりすぎると、肺に届く前に病んでしまう。そして、刷新の後に、良い血液は少量しか残らない。この時、肺の蒸気化の過程で、死んだ物質は血液から分離される。そのため、正常な供給を維持するための充分な栄養が得られなくなる。この状態にある患者は血肉を失い、概して、貧弱である。これは血液とリンパが、横隔膜をスムーズに通過出来ないことに起因している。血液が自由に活動出来ないことで、全体的な衰弱、停滞、低いタイプの発熱、浮腫、便秘、腫大等、リストにある全ての内蔵疾患がもたらされるのだ。
 ここで我々は、骨盤に招集される。もし、仙骨に対して腸骨が、捻れていたり、上や下にずれ過ぎていると、仙骨の神経系に対する損傷は、全ての脊髄神経の障害状態と共に、子宮の鬱滞や炎症、または、膀胱の病気の原因となり得る。これはまた、ヒステリー等、脊髄の障害に起因する、多くの病気の原因となり得る。骨盤と病気の全体的な相関性を考慮するときの論理的思考力に、オステオパスは大きく依存しており、彼の仕事が成功するためには、この知識が不可欠である。
 私が述べてきた五つのポイントは、オステオパスが探査しなければならない領域で成り立っている。私は、横隔膜以下の領域をカバーする、脊柱と仙骨に関する、長くはないが、非常に明確なヒントを出してきた。これから、簡単に胸部、頚部、そして脳に言及していくが、まず、こう言っておく「あなたのサーチライトで、常に、脳を明るく照らし出せ」と。我々はそこに動力を頼っているのだ。殆どの神経が首を通り、心臓と脳、人間にとって最も重要な二つの部分に分岐している。頭部、頚部、胸部、脊柱、骨盤を忠実に調べたまえ。全ての臓器と四肢、各部分は、私がたった今注意を促した、この五つの場所に直接関係し、依存しているのだから。あなたに解剖学の知識があれば、臨床に立ち、成功することは確実である。そして、オステオパシーにお呼びが掛かる全てのケースにおいて、成功が待っているはずだ。


第四章 頭、顔、頭皮

結果に対する原因
 ここで頭、顔、頭皮に固有の疾患を長々と列挙するのは、無益である。頭部またはその臓器の何れかに、血液供給の不足が明らかであるとき、直ちに理性が声を上げる「血液供給を増大させよ、神経伝達に障壁は無い」と。これに対し、顔や頭皮が、血液と水で膨れ上がっている場合、静脈とリンパ系の排液に注意を払い、完成するまでそれを維持する。ここでは、血液、リンパ系、そして頭部の全臓器のための神経供給の知識が、あなたを正しく導いてくれるはずであり、これは解剖学と生理学の教えに充分な注意を払っていれば、当然である。この本は、学校で提供される指導の利益享受を怠った学生に、何処を叩いたり引っ張ったりすれば良いのか、を教えるために著された訳ではない。ここで述べる同じ法則は、頚部、胸部、腹部の病気についても同様に当てはまる。臨床における指導で、諸君は存分にその詳細を知り得ることになる。  我々はよく、筋肉、神経、そして血液供給全てに影響する、四肢の肥大や萎縮として現れる病変を発見する。頭皮の腫瘍や、脱毛、顔面の発疹、扁桃腺の肥大、片耳または両耳の潰瘍、耳の内部または外部の腫脹、これらのケース全てにおいて、原因が結果に先行する。頭部の痛みは、一つの結果である。原因は結果に先んじ、正常な状態からのあらゆる変異に、必ず存在している。頭部の皮膚下に出来た腫瘍は、一つの結果に過ぎない。それが形を得るためには、原料が必要であり、原料となる物質を運ぶのには、動力が必要となる。腫瘍が形成されたという事実は、そこに造作の動力が存在し、健造という仕事を果たした、ということを示している。ただ、その現場には、作業を完成させるためのもう一つの動力があって然るべきだった。その動力とは、健造の仕事が完成した後に、廃棄物を運び去るというものである。

丹毒
 この哲学における生と死は、血液の活動と不活動を通してのみ語られる。それは動いている間は命を宿し、動きを止めた結果が死となる。頭部における区分と骨の詳細を上げることはせずに、頭部の疾患というテーマを考えるとき、私に言えることは、柔らかい肉で覆われた、堅い骨で設えられ、脳、血液、神経、そして膜で満たされているということだ。そこでは頭蓋骨の内腔の機能に沿うよう区分が分かれている。頭蓋の底面や表面には、脳に供給、排液をする血管やその他の構造物を通す、穴、孔、開口部が無数にある。頭蓋の外側では、皮膚、筋膜、筋肉、神経、血管、分泌・排泄器官などの軟組織に、頭は覆われている。この人間の頭というものは、沢山の結果、即ち病気を見せる。それらは栄養に富む血液供給の不足、または、貧弱な排液、静脈を通して戻されるか、排泄システムを通じて棄てられるはずの、消耗した体液に、その原因を遡ることができる。この既知の事実と解剖学の知識を用いれば、「丹毒の原因とは何か?」という問に答えるのは容易であろう。頭皮と顔面の皮膚に広がり、それらを完全に占領してしまう、燃え上がるような腫張。そこには、一般的に頭部と頭皮の丹毒として知られている、この病気の原因となる程までに、長くなった血液の滞留が存在する。この目に見える結果は、頭皮の静脈や膜、または、顔面と頭部の筋膜、リンパ系、細胞システムから運び去られるはずだった液体の「発酵作用」に由来している。もし私が、顔から心臓へと、何処をどのように、血液が運搬され戻されるかを尋ねたならば、あなたは内・外頚静脈に注ぐ各々の血管を説明してくれるだろう。顔面静脈、側頭静脈、眼角静脈、顔面横静脈、前頭静脈、後耳介静脈、後頭静脈といった内・外頚静脈に注ぐ、顔面の表在静脈を簡単に列挙して。ここで顔面丹毒の原因となっている血液の機能不全や停止は、顔面部を完全に排液している筈のこれらの大きな静脈に、その原因を求めることが容易である。これで何処に問題があるか分かったし、この知識から、妨害されている排液を正常に向けて手助けしてやらなければならないことも明らかだ。そうして、あなたの作業が終わったら、後は動脈と静脈の力が、必要な排液と補修を担ってくれる。もし、丹毒が鼻だけに起こっているならば、作業は顔面と鼻の静脈に向けられる。同様に耳と後頭部の間に丹毒が限定している場合、作業は、耳介と後頭部の静脈を通じて、静脈血の排出を促進することとなるだろう。一方、舌が腫れているならば、治療は、舌静脈、上甲状腺静脈、前頚静脈の範囲にまで及ぶだろう。この手法によって、我々は積み重なった留置物と、顔面の腫張を取り除くことが出来る。そして、賢明な回復の後に、正常な活動が続くことを知る。学生達は肝に命じよ。顔面と頭皮の動脈供給と静脈排液における、どのような活動も遅延してはならない、ということを。そして、そのような機能不全の明白な徴候を残しておいてはならない、ということも。

禿頭症
 動脈が担う栄養と静脈による排液の不足によって引き起こされる、禿頭症または髪の問題に、学生達を向かわせるのは、今が頃合いだろう。頭垢、膿疱、面皰、シミ、顔の黒ずみ等もこれに加えられる。これら全てには、各々の様相について、固有の原因が存在し、その原因を突止め、治療を施すことが、我々の使命である。そして、顔面と頭皮の血液供給の重要性について、熟知していることが、専売特許である。  ここまでの我々は、どこか静脈の排液に執心してきた感がある。そこで、学生達の記憶を新たにするため、頭部に表在する動脈の簡単な説明をしておこう。これを外頸動脈から始める。これは鼻と口に向かって分岐し、顔面動脈、鼻動脈、顔面横動脈、眼窩下動脈、眼窩上動脈、側頭動脈とその前頭枝と頭頂枝、後頭動脈、後耳介動脈となる。心の目に、これら頭部表在動脈のイメージを持つことで、頭の排液が、静脈を通じて、正常でなければならず、そうでなければ、頭と顔の疾患が結果となる、ということを論理的に思考する準備ができる。その影響は表面に現れ、皮膚全体にわたり、筋膜、リンパ系、耳下腺、その他、頭と顔の重要な構造にまで及ぶ。また、頭と顔における神経は、良好かつ妨害無く活動していなければならない。それらが一緒に働くことに、多くのことが依存しているのだから。具体的には、後耳介神経、耳介側頭神経、眼窩上神経、頬神経、頬骨神経、鼻神経、滑車上神経、滑車下神経、眼窩下神経、上顎神経等である。これらの重要な神経については、これまで十分に述べてきたから、他にどんな補助が無くとも、頭と顔の全ての部分における丹毒の管理を安全に進めることができるはずである。あなたが少しでも論理的に思考するならば、血管の周囲の筋肉や膜の絞扼によって、頭から心臓へと運ばれている血液は、停止または完全に阻害されてしまうことが、遅かれ早かれ分かるだろう。頭との接合部である首の上部において、絞扼作用は非常に広範囲に及ぶ、ということを覚えておきたまえ。絞扼がもたらす妨害刺激は、表層と同様に、深層の動静脈機能に広範な鬱滞を引き起こす。ここで、呼吸の動作が増大している肺へ、注意を向けてほしい。この絞扼は、脳から肺へと走る迷走神経を頚部で刺激し、肺にまで影響を及ぼしているのではないのだろうか?上行する動脈の絞扼が、より大きな動脈の力を要求するのは当然であり、我々が「強くて早い脈拍」と呼ぶ症状が現れる。そして、これは頭と顔の丹毒に伴って現れることが知られている。

丹毒の治療
 ここでは丹毒の治療を取り上げる。だが、この病気と頭部の他の疾患における、最善の治療法の検討へと入る前に、私は言っておく。いかにして自らの技術、熟慮、そして実践の対象となる病気というテーマに、心を集中させるか、それを学生に教えるのが、私の務めであると。では、まず、グールドを引用し、丹毒を定義付けるとしよう。「丹毒」とは「急性の感染性疾患で化膿連鎖球菌に原因する。皮膚と皮下組織の炎症が特徴である。顔面丹毒 :顔面における丹毒で、最も一般的である。潜伏期の後、高熱を発する。嘔吐や譫妄を起こすことがあり、病状は、身体の広範囲へと急速に広がる。患部は腫張し、深赤色を呈し、紅斑が見られ、痒みを伴う。遊走性丹毒:症状が次々と場所を変えて現れる丹毒の形態。」
 丹毒、または、如何なる頭部の病気であれ、学生がその治療を始める前に、私が思う「治療」の意味を話しておきたい。私が、頚神経や顔面神経を治療せよ、と言うとき、それは、首を揉んで、筋肉を押圧しろ、という意味ではない。私がやって欲しいことは、首の骨を調整し、血液が流れるようにして、首の神経と筋肉を養い、血液が空気を欲して死ぬ程に、血流を阻害している絞扼を、解消することなのだ。丹毒の全てのケースにおいて、饐えた体液が存在することが分かっており、それは、患部に位置する静脈内の血液の遅延に起因する。この静脈血は浄化と再生のために、心臓と肺に送られなければならない。術者はこの重要な戦いに、参戦して然るべきであり、そこで局所的な生命は、生命力の増大と純粋で健康な血液供給によって、救われることとなる。彼は、動静脈の循環と神経伝達の局所的遅延の原因を探査する者として、立ち止まり、観察のため陣取らねばならない。何故なら、それらの中に、生命の液体の供給と、老廃物を除去するパワーが、内在しているのだから。顔面、口、舌、扁桃腺、エウスタキオ管、鼻道、頭蓋に近い上頚部の腺、頭皮、これらのエリアの皮膚、膜、リンパ管、浅・深筋膜の空間を占拠し、妨害を起こしている血液、体液、ガスの過多。そこに接続している静脈と動脈に、生命力がアクセスしていなければならない。静脈や動脈の活動において、血液にエネルギーを与えるために、脊髄や脳から顔へと続く神経の分枝。それらが通過する、窓やドア、開口部を閉ざしてしまっている絞扼の正しい原因に、無知や無能のため辿り着くことができず、死の供給を増やしてしまうのか。或いは、叡知を通じて、それを断つことが出来るか否かは、行動に先行する賢明な思考の結論に懸かっている。当該部位における軟組織に固さを発見したら、狭窄が神経に起因する絞扼に因って起こること、そして、その狭窄は、発酵が破壊的な死の作業を行う顔面の当該部位において、血液の通過を抑圧するのに、十分強力であることを理解していなければならない。哲学者は、血液と神経の供給、静脈と排泄の機序を支配している神経叢を探し求める。彼は、自分が顔面と頚部の筋における、痙攣性の絞扼に対処していること、そして、その絞扼が、上頚部の骨を前後左右に押しやってしまうほど、筋肉や線維を引っ張って、関節を固めてしまうこと、そして、これにより、全ての目的に適うように、顔面の体液の調和的活動を維持している脳と脊髄から出る神経に対し、ダメージを与える圧迫が加えられることを、憶えておかなければならない。学生は、顔面丹毒、鼻丹毒、または、頭部のどの場所のものであろうと、その全ての症例において、骨が、正常な位置から変位しているのを見付けるだろう。顔面丹毒や他の頭部の疾患において、頭蓋、環椎から第一胸椎、場合によっては第四胸椎までの間に、骨の変位を発見するのは確実だ、と私は言える。患者が高熱を発している。これは体温計無しでも、訓練された手があれば分かるが、この時、あなたに必要なのは、温度計よりも論理的思考である。あなたに対する私の質問は、体温が37度なのか、39または40度なのかといったことを知るためではない。私はあなたの両足をアロパシー(逆症療法)の轍から引き抜いて、その両手に消火ポンプのハンドルを握らせ、町の一角に火事が起こったときに、分別ある消防士がするように、リンパ系や肺の細胞システム等、人体の何処からか水を調達して、排泄系が全て働くようにし、火を消し止めさせたいのだ。丹毒は、壊疽段階または壊疽状態が定着するか、炎症がその死の作業を完了してしまう前に、発見し治療できれば、比較的容易に対処することが可能である。だが、真実の探求者は自然と疑問に思うだろう。「なぜオステオパスは、排泄システムが業火に放水するのを望むのか?」と。ここで、生理学の求道者として、あなたが知っておくべき事に、焦点を合わせよう。電気に促進される神経と血液の動作によって、体内のリンと酸素、そして表面の空気は、酸素とリンの結合を産み出す。これに、人体の細胞空間の大部分を占める窒素が加わることにより、発熱として知られる燃焼状態が得られるのだ。そして、このリンの結合反応は、身体の分泌・排泄管からの水に浸水することで、停止するのである。
 丹毒とは単純に、顔と頭の表層の静脈、筋膜、そして、大小の腺における血液等の液体が発酵した結果だと、我々は考えている。我々は非常に表面的な検査によって、外頚静脈、さらには、後耳介静脈、後頭静脈、側頭静脈、顔面静脈、眼角静脈、舌静脈に補助される内頚静脈、上甲状腺静脈、前頚静脈を知ることができる。ここで、頭、顔、首についてのさらなる説明を続けるため、あなたの目を、広大な排出口である上大静脈、並びに腕頭静脈、そして外頚静脈、顔と首を排液し、上大静脈へと注ぐ全ての血管へと向けさせよう。これらの中に流れる体液の進行は、筋肉、筋膜、膜の絞扼によるどの様な妨害も受けてはならない。さもなければ、遅延と鬱滞により、静脈血の窒息と発酵が、その破壊的作業に取り掛かってしまうだろう。心臓へと静脈血を運搬するこの川の簡単な説明において、普遍的に顔面へ敷衍し、頭部全体を網羅する、動脈系とその位置に、読者の注意を向けさせ、記憶を新しくすることに不都合はなかろう。これを外頚動脈から始め、顔面動脈、顔面横動脈、眼窩動脈、鼻動脈、側頭動脈、頭頂枝、後頭動脈、後耳介動脈と続ける。我々は供給の動脈系、それから、排液の静脈系を提示する。そうすることで、あなたは、健康な静脈の鬱滞などというものが有り得ない、という結論に論理的思考によって辿り着くだろう。我々は丹毒の始めから終わりまで、アルコール醸造の腐敗の過程を見出だす。このプロセスは、部分全体が発酵するまで、死をもたらす酵母によって、血液を毒し続ける。ここで、ある単純な疑問が沸き上がる。もし、人間が口から毒薬を飲んだ結果として死亡するのなら、自身の身体における、発酵と腐敗の法則によって生成される毒によっても、死ぬのではないか?こうして、我々は、部分または全体の死について考察する。この毒は自己生成された液体を通じて来るものであり、患部に死をもたらすのに十分な量が吸収されてしまったのだ。それは全身に広がることもある。ここで、人間にある自然の神経エネルギーの全ては、この死をもたらす敵を排除するために、大童となって、全ての力を結集すると考えるのは、間違いなのだろうか。心臓は強力に働き、早鐘を打ち、肺は普段の何倍も、呼吸プロセスを増加させる。通常、収縮筋の神経は、顔、頭、首のリンパ系の不健康な内容物を、痙攣性のプロセスで、可能な限り排出しようと働く。この吐出の試みが効を奏すれば、我々は、健康の回復へと進む自然な傾向を得られる。人間の体は不完全な排液によって、病を得、死ぬ。それはまるで、大都市の住民が下水道システムの崩壊によって、絶滅してしまうことに例えられる。そのメイン下水道はその都市の大静脈なのだ。我々が人体の完璧な排液について知れば知るほど、自然な排液を維持することで得られる結果は、より満足のいくものとなる。そして、それは常に完璧であるべきなのだ。我々が、心臓と肺、そして、それらが、自然が与えた責務を全うできるように、全ての障害物から自由であることの重要性に言及してきたように、我々は理性によって、顔または首のどんな鬱滞による侵害からも、脳を自由にしておくことの重要性を包括しなければならない。その鬱滞は、神経活動の中心としての脳からの、または、そこへの活動の自由を消失させてしまう。 丹毒の治療におけるオステオパスとしての我々の成功は、偏に良好な神経供給、血液供給、そして、正常な排液に掛かっているのである。


第五章 首

人体における組織化された物質
 オステオパシーの学生にとって、人体における組織化された物質は、臨床医として哲学的に思索し始める時に、欠かせない題材である。人体の組織化された物質とは、皮膚、筋膜、膜、筋肉、靭帯、骨などをいう。体の全ての部分は、形を成すとき、上記の物質で構成されている。解剖の座学と実習、組織学、化学、生理学を履修してきた学生は、人体の全ての部分が例外なく、骨、皮膚、筋膜、膜、細胞、腺、脳、神経、血管等で構成されていることが分かるだろう。もし、健康が完全であるなら、人体各部とその機能における、生理学的活動の完璧な調和が、証明されるだけである。完全な健康からのいかなる変化も、人間の生理学的側面における機能的変調を、その程度に応じて示す。病的状態から健康的状態へと回復する機構は、正常からの変化を探求し、綿密に捜索するという、一つの目的を心に浮かばせる。この知識のための最初の調査は、大きな場所の異常という形で病変が無いか見るため、我々を骨格系へ張り付ける。まず、始めに頚部を検査せよ。これは、その位置と脳との接続のためである。脳は生理学的源泉であり、これを通して神経エネルギーが供給され、心臓の便益、即ち栄養を送り出し、肉体を維持できるように重荷を運ぶこと、に適合する。熟練の臨床医は、頚部の全ての関節が、絶対的に正常であることを確認する。頚部には無数の靭帯が在ることを、彼は忘れてはならない。同様に、ストレイン(引っ張り、緊張、歪み)や捻れは、どんなものでも、神経を苛つかせる縺れをもたらすことも。神経は頚、喉、顎のエリアに無数に分布している腺の機能的活動を維持するため、完全に自由であるべきだ。斜角筋、胸鎖乳突筋、肩甲舌骨筋は収縮筋の神経を妨害するのに十分な収縮を起こすほど、刺激を受けることがある。収縮筋は血液の経路や神経供給を締め付けると、危険な絞扼を引き起こし、体の停滞した体液を一様に攻撃する発酵へと続く鬱滞を引き起こすまで、付近を通る血液等の体液の流れを止めてしまう。頚部を注意深く探索し、変位を捜査して調整するため、自らの目と手を教育してきた者こそ、喉や首の腺の病気に苦しむ子供や大人に、解放をもたらすため、武装し装備を整えた人間なのだ。解剖学の学識があなたに教えてきたように、頚部の硬い部分、軟らかい部分は、ある目的のため、そこに収められている。それらは、人間の健康と幸福において、重要かつ偉大な、この区分の設計図と工程表の全ての場所に、絶えず現れてこなければならない。私が奨励するのは、時が良くても悪くても、理性の目と指の感覚を磨くことである。あなたは、首とは何なのかを知らなければならない。その全ての部分と役割を含めて。そうでなければ、知識の欠落に応じた失敗をすることになる。その知識とは学説的なものではなく、実践的なものであり、経験によってしか得ることの叶わぬものなのだ。

頚部の治療
 ある著者は、声が出ない時はこの神経を促進または抑制する、目の衰弱の場合はその神経、喉の痛みにはあの神経、あるいは、咳にはこの神経の組合せ、乳腺炎にはその神経の組合せを云々と書いている。強調しておくが、私がひきつけや喉の痛み、頭痛、眼病、その他、原因が頭蓋と第一胸椎の間にある頚椎のズレに求められる問題の治療をせよ、と言うとき、私が意味するのは、もし、あなたが首とは何かを知っているのなら、治療のため環椎から第一胸椎までの各々の頚椎を本来の位置に戻し、立ち去りなさい、ということである。これであなたの仕事は完了であり、為すべきことは為された。自らの仕事を正しく行えば、確実に良い反応と緩和がそれに続く。まず、頭と第一頚椎から始めたまえ。当推量ではなく、それが頭蓋に正しく適合することを知るのだ。次に、それが第二頚椎の上に真っ直ぐ載っているのを見て取り。それから第三、第四、第五、第六そして第七頚椎へと続ける。今度は、その首を指で上がっていき、頚部の筋全てを、本来の場所に押し戻す。後は、血液と神経が残りの仕事をしてくれる。この手順を週一〜二回続けなさい。くれぐれも「促進と抑制」を捏ね繰り回して、時間を空費しないように。


 病室の過酷な現実に直面した時、オステオパスは調査を開始し、体のどの区分に問題が有るのか丁度知れる所まで、自らの疑問に従って行く。一方の腕が動かせなくなっているのを発見したら、原因を探索するため、腕に向かう。彼は原因という獲物を手から探し始める。そこで、怪我やストレイン等、腕の神経を傷付ける可能性がある、あらゆる病変を探査する。もし、そこに原因の可能性を見付けられなければ、肘または手首の骨の脱臼、靭帯のストレインを探査する。それでも、これらの関節で、原因となるに足る不具合が見付からないのなら、調べる場所はあと二つしかない。肩と首である。そして、そこにある関節の骨と筋肉だ。もし、肩が全て正常であるなら、首に行きなさい。そこから腕の全神経が来ている。ここまで来ても、問題に見合う原因、または病変を認めないなら、調査に疎漏があったはずであり、もう一度最初からやり直すべきである。注意深く目を凝らし、考え、感じる。そして上腕骨の骨頭が、肩甲関節窩に対し適正かを知る。さらに、鎖骨は、胸骨と肩峰との関節の両端で完璧か。二頭筋はその溝に嵌まっているか。肋骨は胸骨と脊柱に対して適正か。頚椎は第一胸椎に対して適正か。そして、腕の神経は頚部から発しているのだから、頚椎の全関節において、全ては適正でなければならない。正常からのいかなる逸脱もあってはならず、そうでなければ、問題が出現する。首は腕に大きく影響するのだから、各々の椎骨の形状、何処でどの様に他と関節するか、いかに靭帯で結合されているか、どんな血管、神経、筋肉が交差し、延びているか、その生きた画像を、頭の中に持っているべきだろう。蓋し、小さな神経や血管を見過ごすことで、甲状腺腫の解放や、頭、顔、そして首の様々な病気の治癒に失敗することになり得るのだから。

頚部の構造
 乳幼児に特徴的な、クロープ、ジフテリア、扁桃腺炎、肺炎、痙攣、脳炎等の病気を議論する前に、解剖学の徹底した知識の重要性を、再度心に刻み込んでおかなければ、議論自体が全くの徒労となってしまうだろう。子供が病気で死ぬということは、その全身が死ぬ、ということだ。その病気の惨状の限度を描写できるのは、血管に導かれ、神経の力によって心臓へ、または、心臓から流れる血液の解剖学的、生理学的システムを含む、全人体の解剖学だけである。今日、これらの病気をテーマに書いてきた最も高名な著述家たちは、敵との戦いに打ち勝つ能力を全く欠いた状態で、我々を戦地へと送り込んできた。ここで、今までずっと、病気の原因は沈黙のミステリーであり、待ち伏せで、その死の弾丸を煙の立たない火薬で発射し、何百万人もの人達を屠ってきた事実に、あなたの注意を引かんとすることを許されたい。今まで私が当たったどんな権威の文献も、このような病気の原因が、その死の作業を行わせるため、骨盤の神経群へと斥候を送り、バッテリーを埋め込むことを、詳述してこなかった。そこで、我々自らで、解剖学、生理学の研究が人体に発見してきたように、造り上げ、栄養し、生命機関全体を動かすため、身体の全ての部位へと沢山の神経を枝分かれさせる脊髄に、後頭骨から尾骨まで細心の注意を払い、我々の解剖学の知識をもって、このテーマの因果関係を論究しよう。これらの神経は、敏感な植物の如く、栄養を与えられれば枝を伸ばし、傷害を与える敵に攻められれば縮み固まる。馬尾の始まる第十胸椎まで、注意深く私に付いて来て欲しい。その神経の束は、未だ解き明かされていない神秘をその身に宿している。それらが腰椎、骨盤、尾骨に達し、点呼のために整列するとき、今まで誰も数えられられなかった程沢山の軍勢を発見することになる。ここで、幾つか質問がある。おそらく単純に、ここが人間の生命の兵士全てが頼る、重要な供給部隊なのではないのか。そして、母親はこの大軍の建設力をもって、生命と形体を与えているのではないか。自然が、全身の各部と通信するための大量の電線を開示することでヒントを与え、人体の電話通信網を示唆するように、もし、この身体区分が人間生命にとって価値あるものなら、この言説が正しく、それが通信システムであり、その電線は第十胸椎の下に広がる生命の大都市に到達するまで、幹線から幾つかの要所で枝分かれすることに、思い至るだろう。この神経の電線は、セントルイスやニューヨーク等の電話電信通信網が風雪や嵐で分断されるのと同様に、往々にして断線することがある。我々は、身体の全ての部分が、各々の目的のために、どれ程完璧な神経供給を受けるかを知っている。最も賢いとされる著述家の目が、彼が語る結果以上のものを見たことがない時、その局所的結果を治療しようとするのは愚行ではないのか?ジフテリアは上部の腺システムを侵し、死に至らしめることもある。また、この病気は、発声と嚥下の運動・感覚神経を破壊し、部分的・全体的麻痺や死の原因となる。これまで多種多様の薬剤が大量に使用されてきたが、この全く原因不明な病気に困惑させられただけだった。権威筋は我々に、ジフテリアは腺系でその破壊作業を行い、クループは気管と肺の粘膜でそれを行うが、致死性であることに変わりはない、と説いている。彼等は原因そっちのけで、塩化水銀、ウィスキー、阿片、催吐剤、クロロフォルムを処方し、気管開口術と乳児から3〜5才の幼児の死に備えているのだ。

クループ、ジフテリア、扁桃腺炎
 我々がある対象に対して理性を働かせるとき、その様な精神的労力には、ただ一つの理由のみが提供され得る。例えるならば、思考し発言する人間の心に芽吹いた確信が、英知のその段階で明かされて然るべき対象に相応しい真実が未だ明かされていない、という結論に結実するようなものである。子供時代に私が教えられた、法律家と医者の違いは、法律家が原因から結果を導くのに対し、医者は結果から原因を導くという事実にあった。弁護士は、有利な評決を期待し、真実の証拠や証言を得ようと努め、この基盤の上で全ての案件を進めていく。もし彼が、公正かつ有能な陪審の前に、真実以外の何物でもない全ての真実を明らかにしたならば、結果について恐れることは何も無い。だが、それでも彼は、無知と不誠実が証言台と陪審に存在し得ることを知っている。これで、コモンローの法学博士についての話は終わるとしよう。次に、我々が理解する法律家の現状を説明したように、医学博士、言い換えれば、生理学の法を取り扱う法律家の現状を正直に説明しよう。この有用性の偉大な分野に分け入った日から、医師としてキャリアを終えるまで、彼は神秘の深い霧の奥に隠された原因によって引き起こされる結果と、自分が対峙していることを知る。診断、換言すれば、結果からその結果を引き起こす原因を予想することに、多くを頼っていることを彼は知っている。そして、快も不快も原因無しには存在し得ないと発見するまで、大した経験は必要無い。彼は理性で、暗闇が光の欠如に起因する結果であり、地面が濡れているとき、それは水が降った結果だと判断し、故に、その神秘的な働きにも関わらず、身体のどこでも、痛みには原因があると結論する。彼には、脳、血液、神経、そして、動物生命を維持する機構の生理活動における電気的・磁気的混乱に、その原因が存在すると信じる理由がある。
 ここでクループを議論の俎上に載せよう。我々の 論理的思考のプロセスを、母なる樹から地面へと落ちた林檎で始める。林檎はその衝撃で、表面の小さな一点に健康状態を破壊する挫傷を受ける。それは直に発酵や腐敗と呼ばれる破壊的状態に進展し、林檎全体の崩壊へと続く。それが自らの死んだ血液の拡散によって死に至ることに疑問の余地は無い。林檎が落下によって致命傷を受け、炎症活動がそれに続き、発熱や発酵が全体的なものとなり、死に至るまで林檎全体に死の液体が拡散するという過程は、どんな観察者にも明白である。林檎の品質において、最初は自然なものである、この小さな挫傷が、発酵の法則が発動され、その化学工場が運転状態になることで、生命の液体の最後の一滴まで、崩壊へと続いていくのを、あなたは目にする。ここまで来れば、この林檎が他に何を描写しようとてしているか、完全に理解されていると思う。乳離れして数ヵ月の子供を取り上げよう。その子供の骨盤、臀部、下部脊髄の神経が冷たい床に下ろされる。これは疑い無く、電磁気的な問題であるが、その効果は確実であり、林檎を支配する法則の如く、神秘的な方法と手順で、骨盤、下部脊髄の神経に致命的衝撃を与え、その破壊作業を開始する。低温の本質は組織を引き締めることにあるから、結果として我々は、直腸の神経を痛めたり、冷え固めたりすることになる。我々はそこにある神経叢から始め、それらの神経が、膜や靭帯や線維に及ぼす強力な活動を観察するため、上方へと旅して行く。筋膜の細胞的、リンパ管的なシステムに与えられた強力な衝撃は、筋全体に拡大していく。ここで私が話しているのは、「筋膜」であり、その人体における普遍性から、これを記憶に留めておいて頂きたい。筋膜はそれ自体と他の神経の栄養に大きく関わり、それは脳からの一つの巨大な導線である脊髄にまで及んでいる。脊髄から分かれる感覚・運動・自律神経の調和は、林檎のそれ以上に改変されてはならない。それらの神経の過敏は、危険を探せという警告である。既に括約筋の神経は、臀部に収縮を起こしており、リンパ系と細胞システム全体からの圧倒的な量のアルブミンやフィブリン、窒息した血液とともに、当然の如く肺に達することになる。衝撃や挫傷は確実に腎臓まで拡がり、硬直の原因となって、これを痙攣状態に留める。この状態のとき、腎臓は排液すべき範囲の不健康な物質全ての受け入れと、排泄を止めてしまう。この時までに我々は、腸と膀胱、腹部の膜と筋、そして全ての臓器の緊張を見出だす。クループでは、両方の腎臓が痙攣で引寄せられ、大動脈、大静脈、胸管に対してピラミッドを形成する。我々は子供の臀部が極端に冷え、脚から下に動脈の活動が無くなっているのを発見する。検査すると、横隔膜が硬直し、押し込められ、絞まっているのが見つかる。さらに、痙攣性のクループの間は、殆ど横隔膜が活動していないのが分かる。ここまで、臀部に始まり、横隔膜まで拡大していく痙攣性の活動を至極明白に提示してきたはずだから、私が考えるクループの最初の原因が何であるか、あなたは完全に理解していると言っても、不当ではないだろう。細胞システムの神経とその内容物に対する衝撃が解き放たれ、肺へと運ばれると、横隔膜で血流が受ける抵抗によって、致死的なものとなる。膜性付着物と呼ばれる滞積物が、細胞システムから、その付属物と共に、気管や肺の粘膜へと滲み出て行く。

ジフテリア
 「お医者の先生は、この子はジフテリアが原因で死んだと言いました。悪性の咽頭痛と壊疽性の扁桃腺炎に発展したのだと。そのお医者様はとっても偉い先生なんです。その先生は妹の為に、出来ることは全てやってくれました。先生は、妹を助けたいと言って、ボストンとニューヨークから呼んだ二人のお医者様に相談され、妹の命を救うため出来ることは全てやりました。先生方は新旧全ての治療法を使いました。焼灼剤で彼女の喉を消毒し、ヨーロッパとアメリカで知られている最強の喉洗浄薬を使いました。単純な家庭療法も全て使い尽くし、肺に空気が行くように、気道に管を入れさえしました。でも、その全てに関わらず、妹は死んでしまいました。」
 その少女は死んだ。その病気はジフテリアと呼ばれ、非常に危険で感染性の疾患である。それは保険局に報告され、立ち入りを警告する旗が掲げられる。これが長年にわたって実践されてきた治療法であり、慣習である。一体今まで誰が、風邪や喉、扁桃腺、首の腺器官やこれらの通路における病気に対する、賢人達や自分達の原因究明及び治療のシステムに、疑問を投げ掛けたことがあっただろうか?また、今まで我々は、立ち止まって、口内や喉に見られる白い斑点が、急速な呼吸、冷気、食物や飲物がもたらすかもしれない外傷に対応するため、そこに現れる、と考えたことがあるだろうか?我々はかつて、何故神はその剥き出しの表面に、この様な覆いを付けたのか、問うただろうか?その自然の防護を取り去ってしまう時、我々は自然の叡智に公然と口を差し挟んでいるのではないか?もし、我々がそれらを取り除き、何も害を及ぼしていないと言うとき、そのような論理は、果樹がその幹と果実を育て、新たな皮を作り、木の生命にとって、用を為さなくなった古い皮と取り替える準備が出来てから、自然に樹皮を落とす場合より、わざわざ木の皮を剥いで、皮無しの木により良い結果を期待する類いの知恵なのではないのか?咽頭痛の治療においては、自然が付けた位置に、その皮が自身の目的を果たすまで、何度か放置してみるのが、賢明かも知れないのだ。
 若者の口、喉、首の病気に対する長年の経験から一言云わせてもらうと。我々は局所的症状と局所的治療に信念を捧げ過ぎてきた。これが 、医学校が信奉してきたルーティンワークへと繋がってきた、と言っても過言ではない。四十年前から、私は喉を放っておくことにした。咽頭痛で使われる全ての洗浄剤を除いたのだ。赤ん坊や少年少女の疼痛箇所には、そこを覆うための葛湯や卵白、アラビアガム、または、他のペースト状飲料を与えた。喉の痛みが引くまで頻繁に。
 ここに胸を張って報告させて頂くが、子供の喉を洗浄したり消毒するという非哲学的な慣習(喉の問題で命を落とした幼児の75%がこれによって殺されたと私は考えている)を止めてから私は、クループ、咽頭痛、扁桃腺炎、またはジフテリアで一人も失っていない。洗浄を避け、理に適ったオステオパシーの治療を患者に施し、十分に粥状の物を食べさせて、疼痛箇所を保護すれば、赤ん坊の死は格段に減るだろう、もしあるならば、それはあなたのリストにある子供の喉の病気以外が原因だ。
 私は自分の学校で、ジフテリアや他の喉の病気について学生に話すときは、自らの知識に基づく。彼らは最高のアメリカ文学(つまりは地球上で最も進歩した国家の文学であり、その最良のもの)に精通する知性の善男善女である。生徒諸君が児戯や諧謔で貴重な時間と金を浪費するために、ここに来たのではないことは承知している。毎年地球上で数百万人の死を司る、病気の大軍勢と戦う訓練を受けるため、この士官学校に来たことも。そして私は、諸君が言うビジネスの意味も理解している。我々と共に過ごす中で、そのビジネスについても話すことにしよう。  薬医達は我々と同種の人間達であり、子供達の命のために勇敢に戦ってきた。彼らは自分達が設計し、作り上げることが出来た最高の武器を使用した。だが彼らは、敵を打ちのめし、その砦を占領することに失敗してしまった。敵の方が、強力で射程距離の長い銃と弾薬を持っていたのだ。敵は、最も熟練した医学の将軍達に、ジフテリアや天然痘等の感染症、伝染病のリストにある病気の射程距離に立ち入らないよう警告する、降伏の白旗や危険の青旗を揚げさせてきた。
 これ以上抵抗できない、または、勝利の望みがないと悟った人間以外に、誰が白旗を掲げるだろうか?医者は薬の種類と失敗の記録を増やす以外に何をしてきたのだろう?彼は薬が強力な化合物であると知り、そう言っている。だが、それについてブートジャック(ブーツを脱ぐ為の単純な道具)程も分かっていない。彼は銃の煙だけを見て、そこに突進するサイの様なものだ。その銃の弾は彼の骨格をバラバラに引き裂き、命を奪う。薬人間達は症候学のハンドブックに行着き、赤ん坊達に投薬し、過去千年間のどの時点とも変わらぬ早さで、彼らを死なせている。そして彼は、自分の方法が信用に足るものでないことを知っている。彼は試みに切ってはいるが、赤ん坊の喉という木から樹皮を剥がすことで、吉と出るか凶と出るか、見当も付いていない。彼は拭ったり塗ったりして、最新の抗毒薬の流行に遅れまいと努力する。そして、「神は与え、神は奪う」と宣い、赤ん坊達を天国に召し上げる牧師の手に、死んだ赤ん坊を手渡すのだ。狩人達はさらなるウズラを求めて狩に出る。そして立法議員達に、自分達以外の狩人を排除するウズラの狩猟規制の導入を掛け合っている。
 クループ、ジフテリア、扁桃腺炎、これらと同系統の首、喉、肺の病気は、秋、冬の急激な気候の変化と共に現れるが、オステオパスは治療を始める前に、良く原因究明をしておかなければならない。我々は扁桃腺の痛みと腫れで治療に呼ばれると、その幾つかで、クループ様の咳と顔、頭、胸の発熱を発見する。彼は赤ん坊の尻、実際には体全体が、通常の平坦さを失い、頭蓋底から骨盤底まで、丸くなっているのを見付ける。我々は、症候学のハンドブックに当たり、それがクループ、ジフテリア、扁桃腺炎云々であると知る。そこで、それ以上質問するのは止めて、薬を塗り、投薬し、気管切開をして、他の医者を呼び、最新の抗毒薬、何かのジャーナルで読んだ流行の治療を試みる。結果、赤ん坊は死に、大勢が試し、失敗し、死をもたらした同じ仕打ちのために、次の患者が訪れる。

ジフテリアの治療
 これらの病の始まりに関する私の知見によれば、術者が観察しなければならないポイントは僅かである。それらは、機能上の生理学的事実と機械的技術である。我々はジフテリアが、寒暖の環境変化によって起きる、収縮筋神経の異常興奮による頚部の収縮筋の活動がもたらす冷えの結果であると知る。このような環境変化は年中あるが、秋冬でより一般的である。その感染性についは全く無知である。その出現における疑いの無い原因は未だ知られていない。私が問題に思うのは、それは蔓延している期間に伝染病として現れるが、その感染性に関して分かっている事実よりも多くの意見が形成されていることだ。ある家族の子供がジフテリアを患ったとして、その死の前後の最悪の段階には、いつも同級生や遊び友達が訪れる。だが、彼らの誰一人としてこの病気や咽頭痛などに罹ることはない。それは風邪として現れ、風邪としてその仕事をする。神経系の調和を乱すのだ。それは血管拡張神経に対して怪我や衝撃として働き、収縮筋神経に道を譲り、リンパ管内のリンパの動きを止めてしまう。長引けば、扁桃腺、気管、全ての気道、肺胞の上皮組織と脂肪組織、細胞性膜のリンパを発酵させ、加熱し、干上がらせる。終いには、口内、喉、気管に蓄積する堆積物と共に、炎症によって粘膜が剥がれ落ちることとなる。もし、ジフテリアの全てのケースで同じ種類と形態のバクテリアが見られる、という学説が正しいのであれば、子供達が飲んだ牛乳を産する牛の乳房の健康状態を調査することをお勧めする。恐らく、三つの乳首は健全な牛乳を出しているが、残り一つが潰瘍や癌、結節に侵された乳房からの粘性または血の混じった牛乳を出しているのだろう。私は汚染された牛乳でバクテリアが飲み込まれていると考えている。

百日咳
 私は百日咳の原因に言及する文献を、手に入れられる限り精読してきた。また、その権威達に相談し情報を求めた。だが、その会話の中には多くの付け足しがあり、有り体に言えば、始めたときよりも、より訳が分からなくなっていた。私の舌は乾き、脳は消耗し、期待は裏切られ、心は萎えた。少しでも有用な百日咳の知識を得ようとした努力もむなしく、私は僅かな光すら得られなかった。著作者達は次のように締め括る。「それは恐らく迷走神経を刺激する細菌のせいだと思われる。」私の頭は月にある湖のごとく空っぽで虚しくなるのだった。この著者逹は、この病気の刺激性の影響が、一端が舌骨に付着し、他端が首の様々な場所に付く筋肉を収縮させ、痙攣的に短縮する神経に関係していると言いたいのだろう。これらの筋群は、舌骨を後ろに引き、迷走神経、舌下神経、頚神経他を圧迫し、刺激する。
 以上の描写で読者には、なぜ私が積み重なったごみの山に、こんなにもすっかり失望してしまったか、少しはご理解頂けるだろう。私がそれを「ごみ」呼ばわりするのは、望む知識に導いてくれる真実が、一欠片も無いからだ。ここで言わせてもらうと、自らの初めての独自の探索で、私は舌骨に付着する筋と神経全てが収縮、短縮し、舌骨を後ろに引き、迷走神経と周辺の神経全てを圧迫しているのを発見した。気管のこの部分にある筋全て、固く収縮した状態になり、それが上方へ広がって、舌の後方まで及ぶ。私は、この筋の過敏状態が、咳発作における気管痙攣の原因である可能性が高い、と判断した。そして、自分の判断に導かれ、肺を往き来する空気の管理機構に関わる筋肉を支配する感覚神経の活動を、手で一時的に遅延または停止させた。この哲学に則った私の最初の試みは、首のその部位の全ての筋群と線維を完全にリラックスさせることだった。そして、それらが呼吸機構に及ぼしていたものを解放したとき、呼吸が正常化したのだ。私は「百日咳の治療では、どの骨を引っ張るのですか?」と訊ねられるが、私の答えは「このような刺激状態において、環椎から始まり仙骨に終わる、舌骨系の筋肉によって固定されている骨全て」である。アメリカンスクールオブオステオパシーの勤勉な学生であれば、百日咳のマネジメントは全てのケースで確実に成功するだろう。そのケースの治療開始が遅きに失していなければだが。
 この精妙に建造された頚部を去る前に、あなたの記憶に残るよう声を大にして言いたい。最も賢明な解剖学者かつ生理学者であり、最古かつ最も成功したオステオパスは、「常しえから常しえに、御業は偉大なり。嗚呼、全能なる主よ!貴方の叡智は広大無辺です」と言わんとして、首とその精妙な神経、血管、筋肉、並びにその上下に在るもの全てとの関係を熟知していたに過ぎない。首の捻れによって、我々は盲や聾となり、痙攣を起こし、言語や記憶を失い、さらに多くの病に見舞われることを考えれば、首についてその全てを知っておかなければならないのだ。心臓と脳、体の全ての臓器、骨、線維、筋肉、腺から伸び、首を通る、数千数万の大小様々な管について、暫しの間思いを巡らしてみたまえ。


第六章 胸郭

抑制と刺激
 我々が「抑制」や「刺激」という言葉を使うとき、それは血液等の体液や、電気的、磁気的活動及び生命力を抑制又は刺激して、より活発化させるという意味である。「命とは、造物主が全ての生命を賦活するため送り出す、穏やかな力のことである」と誰かが言ったが、それを真実であるとし、それに基づいて行動しよう。命を宇宙の心が全ての生命を動かすために送り出す力だとし、命の家の土台から屋根までを良い形に維持することに全精力を注ぎ、その命の力を平穏に保つ。ここで自然の本を何行か読もう。もし、我々が血液の通行を止め、その動静脈の遅延で死んだ血液を取り除くための、自然の化学的変化に幾つか註釈を付けるとすれば、血液が障害の原因となる点を通過出来ないとき、肺が普段よりも多量の空気を取り込もうと労作する、と書き込むだろう。これが胸部を一杯に満たすため、血液は五つ全ての肺葉からの圧力で、一時的に動脈系へと押し出される。この時、肺には空気が大量にあり、その容積を確保するため、胸部には少量の血液しか残されていない。これで胸部全体に及ぶ空気圧によって、血液が胸部から動脈へと押し込まれるのが分かる。胸部から空気が出ていくと直ぐに吸引作用が起こり、静脈の停止弁によって塞き止められ、吸気で空気が出ていくまで胸部に入れなかった3クォートにも及ぶ血液が流入する。静脈血を心臓へと返す全身の筋肉の収縮の力で、血液が静脈系全体から雪崩れ込む。このことから動脈に及ぼす気圧の影響が分かる。肺には空気があり、その内側からの空気圧で心臓から血液を押し出す。そして、体表面に1cmあたり1kgかかる外気圧で、血液は静脈を通って心臓へと戻ってくるのだ。動物生命の身体は、内外の空気圧によって動静脈の循環を補助している。

肺 ー その位置、能力、用途
 胸を開くと、肺がその真ん中に位置し、心臓の真後ろにあることが分かる。それは吸気によって変形する空間に位置し、その変形は二百立方インチ(508cm3)以上のスペースを必要とし、それは容積の変化によってのみ準備され得る。我々が注視し、思考するならば、ここで肋骨が心臓から離れるように動き、横隔膜が下がり、腹部が脹んで下降するのには、何らかの圧力が働いていると結論付けるだろう。苟も論理的に思考する人間にとって、これは論拠となる。これで彼は、原因を特定し探索する準備が整う。そして、胸部の内側の空間とその臓器である肺が、膨張時に肋骨、血肉を押し出すという事実を学ぶためには、観察によって裏打ちされた己の理性の力のみを恃めば良いのだ。空気圧の威力を考察した者は、「動き」について考え始める。動脈網を通じて心臓から血液を送り出し、次いで、胸から空気が出ると、吸引作用で自然と静脈血が浄化のために肺へと送られ、心臓にこの浄化された血液をその目的地まで運ばせるため、新たな息が胸を満たす。ここにおいて、如何なる哲学者でも想像し得る、空気圧こそ最も重要な動力の一つである、ということに我々は気付くだろう。
 ここで、肺の疾患について言っておかなければならないことを、挿入しておく。ある力によって肺は開き、胸の容量一杯まで満たされる。オステオパスにとって、「如何にして」肺が満たされるか知ることは、現に肺が胸部を一杯にし、それ自身に場所を作るため、血液、肋骨、筋肉を押し出すことを知る程には重要でない。それは、肺の充填時における圧力と、肺から空気を逃すことによって生ずる吸引作用の両方を用い、自然が血液を動かしておくために執る、手段の一つなのだ。我々は肺が満たされた時の圧力に大きな力と用途を見出だす。それは動脈を全身へと駆出し、空気を逃がして吸引作用で静脈血を受け取る。そして、動脈が圧力にサポートされて身体の隅々へ供給を行う間、静脈血は弁によって押し戻されないようになっている。(訳者注:現在の生理学の理解では、吸気時に胸腔は陰圧となり上下大静脈へ静脈血が流入し、血液は肺に滞留、左心房への肺静脈還流と左心室からの動脈血の拍出量が減少し、血圧は低下、駆出時間短縮で脈拍は増加する。)
 肺は開閉し、膨張、収縮する。それらは空気を取り込む為に開き、暫しの間空気を保持する。肺の活動は自律的である。それらは空気で満たされる時、胸郭で100〜240立方インチのスペースを占め、そのスペースの確保のために血液は出ていかなければならず、肋骨は押し出され、横隔膜は引き下げられる。この空気の塊は肺胞や細胞の飲み込んだり、空気を吸う能力によって引き込まれているに違いない。今のところ「如何にして」は殆ど分かっていないが、それでも空気は肺を出入りしている。権威筋は筋肉や骨、他のサポートで「如何にして」を語ろうとする。我々はこの著者あの著者と、肺に関する記述に当たり、数十項から百項と読むのだが、彼等の誰も、それらの用途や能力に対し現実的で正確な光を当てられないため、得るところは少ない。私が言いたいことは、満たされ、一杯になった時の肺の力に関係している。そこには圧力、パワー、力が存在し、血液や他の物質を押し出し、送り出して、胸膜内の肺に与えられたスペースから退ける。我々が少しでも観察すれば、動脈系を通ずる心臓からの血の駆出を、その圧力が助けているのを見て取るだろう。さらには、心臓への途上で血液の逆流を防止するための二つの停止弁が付いた大小の静脈を発見するはずだ。圧力が無い、または、弁の切り込みが足りない場合、血液は元来た場所へ逆流し得る。だが、肺の静脈への圧力が無くなれば、血液は自然と心臓に流れ注ぐ。我々はこれを補強とみなす、これにより動脈流は肺の圧力に補助され、動脈系が表面における全ての需要を供給するまで、静脈流は停められる。そして圧力が弱まると、全身的配給用に浄化し適正化する必要のある化学物質を受け取るための次の肺への配給プロセスに備え、血液は自然に心臓へ流れる。このようにして我々は肺について、その化学的な用途のみならず、血液や他の物質が恒常的に動くように、補助的圧力を血液に与えていることに気が付くのだ。
 ここで学生は当然、次のような疑問を呈する。もし、血流が肺の力に依るものだとしたら、肺が形成される前の胎児ではどうやって流れているのか?この問に対する答としては、胎生期には母体の肺が胎児の血液を浄化し、また、彼女の動脈の力が、誕生に先立って要求される生後の活動とエネルギーを担っている。ここでも我々は、自然が動物生命における全ての要求を満たしていることを知る。
 ここまで、肺の場所と形態についての長い説明を追って来られたならば、貴方の心は肺の病気を取り上げるに相応しい状態となっていることだろう。肺の病気として知られる「結果」の原因へと導かれるために。

肺炎
 この親しみのある病名または題名の下に、我々は経験不足の学生に対し、気候の変化が肺の粘膜に存する神経終末を刺激し、その活動の本来の調和を障害または妨害するショックを与えるのだ、と言っておこう。この刺激は暫くすると、肺の筋肉、組織、線維に緊縮を生じさせ、血球や他の成分が窒息し、死んでしまう程長くガス交換を遅延させるレベルまで、静脈における血液交通の自由を妨げる。健康な状態の肺において、それらは動きの中になければならない。だが、この時、肺の一部または全体には過敏性を生じさせる程の停滞、停止、蓄積そして鬱血が見られる。そこでは、肺葉の一つまたは五つ全ての一部に不活動な液体の留置状態が現れ、発酵の第一段階へと進んでいく。これが原因となって炎症として知られるもう一つの活動が続き、より活性の高いエネルギーが持ち込まれ、温度上昇をもたらし発熱となる。この熱は平常の体温より何度も高いものに成り得る。このよく知られている肺炎または肺熱は、次のステージに短期間で遷移することがある。それは、体温上昇と活動の増大が死んだ血液をガス性の液体に変え、肺から外へ吐き出させるまで、一日かそれ以上続く喀血等である。喀血からの変遷で、治癒に関わる健全な膿が現れる。肺炎において、病気は感覚神経の刺激に始まり、その過敏状態から、鬱血、炎症、回復または死へと進むのが、我々の理解である。

肺病
 私は「肺病」について余り書いてこなかった。それは私が今まで引受け薬を使わず治療に成功した症例について、長期かつ厳密な観察を加え、自分の結論を精査したかったからである。私は肺病が治癒するのだという明白な証拠が得られるまで、結果を公表するのを控えてきた。これまで発見した原因に多少の疑いは有るものの、かなり多くの症例が治癒したのは確実である。これは、初期の肺病における素晴らしい考察の一つが始まりとなった。
 もし患者が早期に、信頼おける所まで訓練した熟達の人に預けられたならば、肺病による大勢の死亡者は、直に過去のものとなるだろう。その人は特別な一分野として、この教育を受けなければならない。表面的知識や不完全な仕事には荷が重すぎる。生命が危険に曝されているのだ。これを救えるのは力や無知ではなく、技術である。肺の中に札束しか見ていない人間は、この病気において信頼には値しない。
 考える力を持つ人間、そして、求められる結果を出すために、自然の正確な法を理解し適用する技術こそが信頼に足るのである。我々は夜明けが来たと信じている。昼前には人々の心から、肺病に対する恐怖が綺麗さっぱり無くなっていることだろう。この病における咳が、結果の一つに過ぎないと解り、証明されてから随分経つ。それが一つの結果なのであれば、賢い人間ならその原因を突き止めることに精神力を傾注するだろう。咳について、如何にしてそれを緩和し取り除くか、何処に原因を特定し、それが何時分かるかを知らせる、痛みの場所、脊柱と胸部の疼痛、吐き出された物質の性質等の証拠は出揃っている。それは論理的思考を重ね、結果を記録していく程に、より簡潔になっていく。我々はこの結論が、平均的人間により何時でも導き出せるものだとは考えていない。それには、目的に即した特別な訓練が要るのだ。医師は、肺が胸の上部にあり、心臓や肝臓、胃に接しているということだけではなく、それら全てが互いに維持し合っていること、また、感覚、運動、栄養、随意、不随意の五つの神経群をサポートし、栄養する血液がふんだんに供給されねばならぬことについても知らねばならない。もし、栄養神経への供給が減少すれば、虚弱がそれに続くだろうし、これは運動神経でも同様である。そして、動作は肺に平常通り血液を運ぶ、または運び出すには弱すぎるようになり、肺の健康に必要な力で他所に移せないため、血液は病んで鬱血してしまう。
 この時、感覚神経は圧迫と栄養不足で過敏になる。そして、感覚神経における鬱滞が原因の圧迫による重荷を下ろすため、自然が努力する結果として咳が出ることになる。もしこれが結果であるなら、我々は苦しんで死ぬか、原因を取除いて、命を無駄にすることを止めるかだ。自然は然るべき時に、修復の作業を行う。例を上げて考えてみよう。肩を脱臼すると発熱がそれに続くが、これはどの四肢、またはどの関節でも同様である。もし、血液等の液体が他の液体の通行を止めてしまう程の量で滞留すると、自然はそのエンジンを点火し、液体を気体に変換して滞留物を除去しようとする。熱と動くことが治療法として重要であり、自然の炉が熱を産み液体を気体や他の物質に変え、それらを排出器官を通じて空いている場所へと通過させ、再び体が正常に働くことを許すまで、発熱と痛みが予測される。
 我々が信じるところでは、助かったかもしれない何千もの人が、毎年肺病が原因で亡くなっている。我々は、愚かさのベールが自分達の理性を覆うのを許してはならぬし、単純な酷い咳の多くを「肺病」に突入させたとしたら、甘んじて非難を受けねばならぬ。治療法は自然なものだし、既に得られた結果から、出遅れていなければ、75パーセントが治癒し得ると信じている。我々が一般的に「肺病」と呼ぶものは咳、悪寒から始まり、これが一日二日続く。時としてこれに低温または高温の発熱が続く。この風邪は通常数日で緩和し、肺は「緩む」、そして一定期間の喀痰があるのだが、咳が気候の変化に伴い繰返し現れ、その度に長く続くようになり、終いに常態化する。この繰返しのため肺病は労咳とも呼ばれるのだ。薬剤が制限無く頻繁に投与されるが、肺は悪くなっていき、咳はより激しく、長引くようになり、遂には肺から出血し始め、体力が衰弱していく。気候の変化が示唆され、受け入れられたが、それだけだった。一人また一人と同じ死出の旅路を歩んで行く。会議で一人の医師が「遺伝的肺病」であると報告し、皆その決定に納得する。そして患者の家族は、風邪や咳が棺桶を意味すると思うことになる。医者が、その家族は「遺伝的肺病」を持っていると言ったために。これが過去の医師達に安寧と慰めを与える木陰を提供してきたのだ。
 もし冬の終りに、疲弊させ衰弱する咳が出て、それを治癒させたいと望むなら、私はあなたに一度オステオパシーの治療を受けることを勧める。肺が癒え、次の冬の攻撃に対して強固になるように。

肺病の説明
 私が「肺病」で何を意味するか、読者が理解していない恐れがあるから、極簡潔に説明を記しておく。それは、始まりから経過、そして完全に進行した肺病までである。我々はよく、咳が常態化している症例に会うが、これは二年前、五年前、十年前、さらには十三年前までと、患者が麻疹を患った時期まで遡り、長期間にわたる喀痰を伴う。激しい咳とストレインは肺の物質さえも渋滞させ、結果、慢性的炎症が起こる。喀痰を分析すると、フィブリンや気管支の筋線維すら発見される。この危険な症状の羅列は、オステオパスにとって、絶望の内に諦める理由になるだろうか。否、違うはずだ。寧ろ原因を狩り出すため、より深く分け入って行くべきなのだ。彼は迷走神経の線維に問題を発見するかもしれない。環椎または舌骨、脊椎、肋骨、鎖骨が肺胞や気道の粘膜へ供給されている神経を圧している可能性がある。もし、足の切り傷が屡々破傷風を引き起こすのだとしたら、中枢、末梢または神経線維に対する圧力が、静脈循環を支配している肺の神経の一部に収縮を起こさしめ、血液を刺激物として不確かに保持させる結果となり、永続的な咳の原因とはなり得ないだろうか。
 今はオステオパスにとって白旗を揚げ降伏している時ではない。最も純粋な理性の扉を開き、気合いを入れて帯を締め、沈みかけている命の器を重荷から解放するのだ。重りを筋膜から船外に放り出し、排出器官の力を呼び覚ませ。神経に全ての力を発揮させ、自然の活力を低下、減少させる重しを悉く捨てさせるのだ。それらに働く機会、そして、十全な栄養を与えよ。そうすれば、知性ある技術者の側に勝利がもたらされるだろう。諦めるな、死ぬ気で戦え、徹底抗戦だ。さあ、積極的に探索の野に分け行っていこう。そして、今まで呼ばれることのなかった「肺病」の病因と我々が結論付ける原因を記述しようではないか。
 脳から始め、観察の梯子を下って行き、止まって精神のナイフを研ぎ、忍耐という阿片で自らの神経を鎮めておく。環椎から開始し、勢い付いた思考のサーチライトで追跡し、精神力の髪を撫で付けておく。そして、その賢く形作られた首の最初の部分を通過する神経、または、取り巻く神経が幾つあるか学ぶまで、その骨を離れてはならぬ。無限の心と手によって、それが設計され、造られたことを覚えておくが良い。どの神経が肺の底部や中心部、さらには、個々の小さな肺胞、筋膜、腺、血管に繋がっているか見るのだ。其々の神経線維がその場所において、王であり主であることを、よもや忘れた訳ではあるまい。

肺病の効果
 私は肺病が、首におけるリンパ管の閉鎖で始まると考えている。リンパは動物の体において、最も洗練された構成要素の一つである。その精妙さは、正常な健康を維持するために、継続して完全な供給が為されなければならない物質であることを、示唆している。もしそうであるなら、実験的観点から、麻疹、クループ、風邪、発疹熱で見られる、結紮された頚部について見てみよう。環椎から下を通過できず、供給が三日間ストップしているとする。かような病態においては、この時点で熱が上がり、アルブミンを干上がらせ、結核結節の原因となる。熱が水分を乾かしてしまい、肺、肝臓、腎臓、腸に小さな滞積物としてアルブミンを残すのだ。もし、腺の腫大や他の滞積物の原因として、リンパが大きな役割を担っている、という見方が真であるなら、粟粒結核の原因が分かったことにはならないだろうか。さらには、「結核とは何なのか?」という問いに答えられる望みを持って調査を遂行する励みとはならないだろうか。今の医学者達は、千年前と変わらず、茫漠たる洋上にある。私は読者に、首での鬱滞のせいで体液が塞止められている間に、なぜこの病が始まるのか、私の考えを述べておく。最も粗削りな論理を用いたとしても、首の形態から多くの目的が導き出せる。それを作るのに使われている材料は思考力を廻らせる理由をくれる。何故それは多くの目的に合致するよう、思い通りに捩ったり、曲げたり、伸ばしたり、固くしたり、弛めたり出来るように作られているのか?鞘である強靭な皮膚が大小の血管、神経、筋、骨、靭帯、筋膜、腺、喉や気管と共に、首を取り巻いている。骨には脊髄のための大きな運河が通っている。それは強い骨の壁によって堅固かつ巧妙に守られているため、脳から供給される生命力を維持する液体の通過は、外的圧力によって妨害され得ない。しかしながら、この脊髄に与えられている防護も、肺やそこから下のもの全てに供給される血液その他の液体を止めてしまう程の液体の凝集には勝てないことが分かっている。

肺病の原因
 オステオパスにとって肺病は、物理的身体の病院、そして、全ての筋膜から直接死者が送り込まれてきた墓場として認識されているだろう。我々の理論では、肺が死んだ物質を吐き出す時、血球成分が筋膜、大網、腸間膜の病院で死んでいる。血球成分が死んだ分、喀痰が滞積し吐き出される。終いに、腐敗した体が健康な体と病んだ体両方を上回り、生命力は死をもって普遍的腐敗、全体的崩壊または個体の死に道を譲る。そして彼は「肺結核で死亡」した人間のリストに名を連ねる。オステオパシーの学生がこの思考方法によって、まだ殆ど解明されておらず、その荒廃において致命的で、破壊の版図を人間家族に大きく広げてきたこの「結果」に対する原因の深みに辿り着けるようになることを私は願っている。そして、我々の調査のこの時点で、解剖学を復習し、表層、深層そして全体の神経・血液供給を具に調べることで、心を新たにすることを学生諸君に求める。

粟粒結核
 「結核結節とは分離され、包装された身体の一部である」結核結節の説明全てはこれに尽きる。結核結節は一定量の肉体的物質であり、人体の特定の箇所に集められ堆積したアルブミン、フィブリン他の物質である。一般に線維性の膜様物質で包まれ、球状を呈し、他の同様の球体から筋膜で隔てられている。これは無数に見られることもあり、1立方インチ当たり数百個にも及ぶが、なお個々が判別可能である。それらは、肺、肝臓、腸、皮膚等の筋膜が豊富な場所でのみ成長するように見える。これらは形成された後、ザラザラした表面以外は何も示さず、化学工場の溶解と溶媒の力がそれらを身体から消し去るための活動をする。一般的にこの消去作業は、カタル性の病気が身体を蝕んでいるときに始まる。蓄積したこの様な物質を処理する目的で、自然はその最初の努力をカタル期に始めるのである。この時、大量の溶媒が、運動力の補助で運ばれて適用され、腸や肺、そして多孔性、排出系の器官を通して刺激性の物質を追い出す。馴染まない物質を悉く吐き出すための運動力として電気が喚ばれる。この自然の努力、運動神経の活動の増大によって、電気が発熱のレベルまで熱をもたらす。我々は死んだ物質をガスに変換するため、身体の溶鉱炉の熱が必要だと理解している。ガスは排出システムを通って、水、リンパ、アルブミン、フィブリンの形より断然容易に身体から排出される。
 このガス燃焼の過程で、運動神経を通じて増大した動脈の活動により、とても高い温度が得られる、これが結節に浸透し、産み出されたガスの充満で炎症が起こる。これが結節をガスに変換し、それらの存在と占領から体を解放するための自然のもう一つの努力である。
 例えば、煙管に一般的な大きさのタオルを通すことが出来ると考えるのは理性的だろうか?にも拘らず、自然はいとも簡単にそれをやってのける。火皿にタオルを詰め火を着けると、程なくタオルは煙やガスに変わり、管を通れるようになるのだ。このことから、体が発する高熱は、死んだ体の一部を焼き出すための自然の焼却炉だ、と看做すのは妥当ではないだろうか。人の筋膜のあらゆる場所に包含され、気体の形でしか体外に出せないこれらの物質を、皮膚を通じて除去するための。
 ボクサーの目の周りの黒い出血斑は、死んだ血液からガスを生成するため、直ぐに焼却炉を点火する。皮下の血液が相当量あったとしても、血液は直ぐに姿を消し、目と顔全体の様相を正常に戻す。膿は生成されず残されもしない、熱が下がると、目も治っている。このガス生成焼却炉以上の自然の努力が有るだろうか?あなたが他の方法を発見しようとするのは構わないが、私の知性はこれ以上のものを見付けられなかった。
 理性が栄養として吸収されなかった白血球を筋膜の中に見るとき、それは麻疹や他の発疹病の期間に、その「子宮の力」全てを使って筋膜に貼り付いており、直に形を作り、活発かつ堅牢な存在である「結核結節」となる。全ての結節は使途未特定の物質の集まりであり、その母なる筋膜が治療と修繕のために包み、キャンプに入れたもので、死が解散させるまで、筋膜の基金を使えるようリストに登録された年金受給者なのだ。
 人間の母親は思春期から閉経期まで子供を出産する。人によっては十回以上の出産をすることもあるだろう。だご、自然は必ず停止命令を出し、筋膜にある子宮の生命維持の神経系全てと、胎児に供給される豊富な血液は、存在を構築するプロセスへ向かうのを止める。その目的のための生命力は停止し、二度と戻ることはない。自然は最早、彼女の身体に同種の存在を造り出す元として活動することを要求せず、彼女の余生は自由になる。

誕生の多様性
 ここで疑問が持ち上がる。彼女の身体で発達し、出産されるのは子供だけなのか?これは否である。彼女には他の生殖プロセスがある。彼女の筋膜には一つの種が宿っており、活性化されると、「麻疹」と呼ばれる存在となる。これは一度「妊娠」すると二度目はない。麻疹を成長させ、サポートする神経のセットは、この「子供」の出産時に死んでしまう。そして、二度と受胎せず、再び 麻疹を引き起こすことはない。だが、彼女の筋膜の中では他の種が、天然痘の男性原理によって活性化されるのを待っている。そして、それが生まれるとき、それに命と形を与えた神経は必ず死ぬ。人はこのような「子供」、「生命」を生涯を通じて一度だけ持つ。それでも、まだ他の種子が補給部隊の到着を待っており、我々がおたふく風邪と呼ぶ、太った「子供」を育てるため、腺の筋膜における生命力を消費している。男女ともにこれらの生物を身籠り、生み出す。そして、その種類における需要を打ち切ることで、それらが来た道を閉ざすのだ。
 私は読者の心を、どんな生き物も物質無しには形を得ることができない、という事実、さらには、異常な増殖や成長、病的な状態に発展する前には、必ず筋膜の親密な援助があり、筋膜こそ病気の原因を探す場所であって、全ての病における治療活動を始める場所でもある、ということに導きたい。
 古来より哲学者は「理性の厳格な規則に依ってのみ、我々は真理に辿り着くことが出来る」と屋上から叫んできた。彼は想定される沢山の原因を適合させ、自らが観察した事実に基づく結論に到るまで、それらを足したり引いたりする。我々は物質と種子に存在する原理を知らなければならない。それらは適切な状態と合致して、「動物生命」と呼ばれる強力なエンジンをもって、事実と動作を保証人とし、真理をもたらすのだ。ここで、我々は思考する。もし玉蜀黍が、暖かく湿った土に蒔かれたならば、その活動と成長が玉蜀黍の胚から生きた茎を形成し、適切な状態がある限り、成長と成熟が完結するまで、生命活動が持続する。種子を摘まんで土に押込み、覆ったならば、それが仕える法に従い、発芽、成長、成熟が期待できるのだ。要するに、我々は成功のためには、種子を置き、それを覆わなければならない。そうすることで受胎の法則に望ましい結果を得るためのチャンスを与えるのだ。自然がいつも我々の心に示しているように、土壌と季節が適切であれば、種はそれ自体の法に従うのみであり、そこから我々は、病が芽吹き発展する前に、その種を植える土があるはずだ、と結論付けざるを得ない。そこには、程好い状態、栄養の雨、このようなプロセスに必要な時間がなければならない。そして、これらの法は厳格に遂行されなければならず、さもなければ確実に失敗する。自然の偉大な工場が絶えず人体で働いているとき、一年中各々の季節に昼夜吹込む、寒暖差の極端な冷たい風や毒気、そして肺や皮膚が一生涯、絶えず続ける分泌と排出。我々は普通の風に含まれ、漂っている様々な要素を吸込むが、それらは健康的動物形態を維持する為に必要な液体の調和にとって、破壊的となる原因の種を含んでいる、と仮定するのは行き過ぎだろうか?ここで酵母菌、または主に石灰の上で生きている物質からスタートしよう。この酵母菌がその命と食欲に即した食料に対する飢えと活動にあり、常食となる石灰質のみを土、水、空気から取り込もうとし、その力で栄養として取り込まれた他の要素を全てを破壊してしまうとしたら、それが肺粘膜の筋膜に、肺と排出システムの再生能力を上回る、威圧的な量のこうした物質を残してしていくと考えるのは妥当ではないだろうか?この残留物は感覚神経に対して刺激物として働き、動物生命の通常活動に電気を上乗せして体温を上げるのに十分な速度をもつ運動神経電力に人体のメカニズムの運営が任される。結果、発熱として知られる温度が生成されるのだ。
 極端な温と冷は、停滞と抑留の原因となり得る。一つは寒冷による収縮により、血液他の液体が窒息死するまで停めおかれる状態。一方、温度が暖かいと、筋膜にある神経、血管その他の導管がリラックスする。この時、動脈は排出システムによって浄化される以上の血液を注入させる。こうして、血液他の物質が腐乱する原因が作られる。あなたには論理的な基礎がある。そして、全ての病気、カタル性、季節性、感染症、伝染病、そして疫病には原因がある。筋膜は自らが生と死の母型である可能性を証明している。通常の活動に調和があれば、健康がもたらされ、歪められれば、病気が結果となる。

肺の病気
 アメリカにおいて、肺の病気は他のどんな病気よりも恐れられてきた。肺の病気と他の病気を比べると、結核、肺炎、気管支炎、神経性咳で死ぬ人数は、天然痘やチフス、胆汁熱、その他全ての熱病を合わせた総数よりも多いことが分かる。伝染性の病気の多くは、都市、国または軍隊に一定期間留まり、何人かを殺して立ち去って行き、その後何年もの間戻ってこないこともある。これが黄熱病、コレラ等の疫病の歴史である。それらは自らの犠牲者数百人を屠殺し、それを始めた時同様予告もなく終わる。しかしながら、扁桃腺や気管、気道の上皮でその効果を見せ始める病気について考えると、自分が茫漠たる大海原にいるが分かる。
 普通の風邪が往々にして持続し、慢性的な肺の炎症として居着いてしまい、患者が結核やクループ、ジフテリアや扁桃腺炎で死んでいるのは、大した頭が無くても過去の観察から知ることができる。カタル性の問題は肺において酸化を失敗させることで、生命力を消耗させる。ジフテリアは老若を殺す肺病のために道を舗装する。ダンスホール、オペラハウス、教会、学校の汚れた空気が、弱った肺を探し、結核の種子を植え付けるのに抜かりはない。
 生命の仕組みとその厳格な法則を深く深く掘り下げて行くと、一つの共通する全体の各部、即ち、完全性を全うするために働くエンジンの大きな車軸や支柱、で働く大勢の労働者の作品と働きを目にする。そこには偉大な補給部隊長である心臓がおり、積載した輸送列車を続々と送り出し、車両部隊長に対して、部隊が全ての師団に速やかに進行し、大隊、中隊、小隊全てに糧食、軍服、弾薬、軍医、そして添木に包帯を供給するよう命令する。そして、静脈部隊によって死傷者を野戦病院に収容し、回復させ、または、軍の儀礼をもって葬る。生と死の間の激戦で、疲弊する任務に当たる白血球の渇きを潤すため、静脈部隊は命の水とともに、最も緻密な骨や筋肉、腺を恐れることなく貫く。また、心臓は時として、長きにわたる寒暑の包囲戦を戦う部隊のために、輸送列車の進行を強いられる。数ある命の軍人の中でも、血液供給を受持つ補給部隊長ほど大きな責務を担っている者はいない。そして彼は、活動する生命の全部分に動きを与えている脳から、配達に必要なエネルギーを借りているのだ。

確認されている効果
 これまで、人間の心とペンは、肺が自ら結核結節等の破壊的物質を生成するのだ、という説に賛同し、そこに落ち着くことに甘んじてきた。それは狂った肺の自殺であり、自らの命を奪っているのだと。医師は肺から吐き出される物質を分析する。彼は病気の肺を顕微鏡に載せ、物理的な検査を行う。結び目や瘤等の正常からの逸脱が、肺の細胞や筋肉、組織、血管、そして感覚、運動、栄養の神経の中に見られるだろう。彼は肺の形状と液体に大きな異常性を見出だすが、それ以上の調査を打ち切ってしまう。彼は結果を発見してはいるが、その全ての悪行をただ肺のせいにするのみである。彼は自分が有罪人を発見したと知り、刑を執行するが、何故かを問うことはない。どうして肺が病に道を譲り、その機能を果たすことに失敗したのか、その原因を問うことなく、それらが概して大網、胸膜、横隔膜、腹膜に備えられたリンパの栄養で補助されていると考えることもない。大網が病んでいるとき、肺が正常でいられないのは何故なのか、彼は尋ねられなかったのだ。結局彼は、肺の病気の全ケースで、完璧に正常な大網が発見できない、ということが分かっておらず、また、少なくともこれまで、肺の病気に関する論文で、結核の遠因が大網まで遡求され得ること、そして、肺の病気が現れる前に、そこに機能不全が生じることに言及したものは皆無である。この発見はオステオパシーの功績である、と言っても差し支えないだろう。肺の病気で亡くなり、アメリカンスクールオブオステオパシーで死後解剖を受けた全ての人で、大網が病み、引き裂かれ、傷付き、癌化し、その機能が果たせなくなる様な障害を負っていた。我々には、大網が病んでいるとき、肺が死ぬか、その役割を正常に行えなくなる、と信じるに足る理由が有る。

消化
 我々は生理学において、消化について多くを学ぶ。ここではそれが止まる所から始めよう。それは我々を、胸管で作られそこを通る新鮮な乳糜と共に、肺へと導く。この乳糜は、肺で精錬されるために、これを送り出す心臓へと流込む前のものである。乳糜は肺で酸素を充填され、適格なものとされ、その任務につくため大小の動脈を通して、身体の様々な場所に送られる。精製の後、分泌系に取り込まれる前に静脈系からの古い血液と肺で混合されるために送られる血液が全てガス状であることは、これまで言及されてこなかった。私の心の飼葉桶の周りでは、血液に関する疑問が数頭餌を探している。全ての物質的身体を形成する前に、最小単位の原子まで全ての物質を分解する精製のガス化段階を経ずして、我々は血液を使うことはできない、と理性は示唆している。血液のために物質を整える過程において、我々の身体の筋肉や骨は全て、ガス状態を経ていると考えて差し支えないだろう。この時点で、疑問の世界が立ち上がる。
 最初の疑問は、何処でどの様に、体の中で食物がガスにされるのか、である。食後の消化不良患者に耳を傾ければ、食事の後一、二時間続く、胃から上がる空気は、一体何処から来るのか気になるはずだ。そのガスは胃と腸で生成される、そう我々は信じている。それを作り胃に入れる他の場所や方法が見当たらないからだ。結果、これまでの証拠から胃と腸が、ガスを生成する場所の一つであると結論付けられる。私は食後に、これより長短有れども、大量のガスを生成、排出する胃について話してきたが、この種の人達は消化不良と呼ばれている。同じ人種でもう一つの種類の人々はガスを生成しない。彼らは同じものを食べながらも、もう一方で描写されたような状態にはならない。では何故、前者の胃はガスを吐き続けるのに対して、後者はそうならないのか?後者の胃が食後ガスを出さないことは、彼の胃がガスを生成していないことの確定的な証拠と成るだろうか?それとも彼の胃と腸は前者と同様の速さでガスを作るが、胃と腸の吸収で栄養物質を取り込み、残りのガスを皮膚の排気ダクトを通して出しているのだろうか?もし、排気ダクトがこのガスを取り込み、皮膚を通して体外に運び出しているのだとして、彼が健康な人間であるとするならば、もう一方の胃が口からガスを排出するのは、胃の神経終末の生命活動の不足により、胃の吸収作用が詰まっているか、動いていないためであると看做せるだろう。
 このテーマと繋がるもう一つの疑問は、このように胃から大量のガスをゲップで出す前者が、一様に手足の冷え、または全身の冷えに苦しんでいるのは何故なのか、である。一方で後者はとても温かく、快適であり、いつも体から温かさを発している。
 これらの手掛りの下に私は尋ねたい。消化とは如何なるものなのかと。

消化の哲学
 消化は全て、神経の運動系を使って脳から送られる電気的衝撃の結果である。このような衝撃は、地球の中心から表面の魂へと永続する運動の中にある。これらの衝撃は栄養管に発見できるあらゆる物質を粉々に砕くだけではなく、生命力と呼ばれる動的原理を与え、注入し、これと結び付ける。さらにそれは、脂肪、筋肉、腱、髪、歯、骨を形作る目的のための分解、選択、結合の働きにおいてのみ生命力となる。異なる種類の液体が、脳や肝臓、腎臓等の異なる場所に見られるのは、これらの生きた衝撃の作用である。この法則は同じ様に、全身の様々な腺器官に匂いが作られ付与される作用で真であり、その理由に適用可能である。中心の電気モーターエンジンである心臓は、その全ての鼓動において、この電気モーターに供給するため、通常の容量まで電気を供給された蓄電池または脳を変化させ保持するために要求される速度に規制されている。これが無ければ、肺の小包系、心臓、胃、腸、子宮、筋膜のリンパ管の一部または全体、さらには身体全てにおける緩慢な活動や異常な量の滞積物といった目に見える形で、欠陥としての虚弱が段階的に明らかになる。

心臓
 通常、胸部の疾患は肺、心臓、胸膜、心膜、縦隔とその血管、神経、リンパ管に限定される。胸を開いてみれば分かる通り、心臓は全身各部に血液を送るのに適した場所に置かれている。そこから全ての筋肉と臓器、胃腸、肝臓、脾臓、腎臓、膀胱、子宮等や、全ての骨、繊維、靭帯、膜、肺や脳まで血管または配管が通じている。血液が各々の場所を栄養する旅に同行すれば、筋肉や臓器の各駅で、消費される量に合わせて素早く供給が行われる様が見られるだろう。このように消化の完全な動作を維持するため、心臓の拍動一回一回が血液によって生命を供給し、一方でもう一つの血液供給が生じ、心臓へと運ばれる水路へ流入する。この血液は水路を、強靭かつ清潔、活発に保つため自由に与えられる。多くのものが心臓に依存しており、その研究には大きな注意が払われるべきである。なぜなら、健康な身体はほとんど全てを、正常な心臓と肺に依存しているのだから。さらに、胸部の構造物の研究は最大の注意を持ってなされなければならない。首や脊柱の関節全ては、健康な心肺に大きく関係しており、命の液体は全て心臓と肺を通過し、どんなものであれ、骨のズレや筋肉または神経の緊張や、衝撃は、その液体が臓器などの場所に充てられる際、良い健康状態を保つべき所、一定程度その生命力の有用性に影響を与えるのだから。オステオパスの責務は、健康な血液・神経供給を心掛けることに始まり、これに終わる。彼は自らの目を脊柱の椎骨の上に昼夜置いて、その骨が全ての関節面や他の軸受部で正しく関節しているか探り、脊柱が正しく、環椎から仙骨まで一列かつ全ての肋骨が脊柱の突起と完璧な結合をしているのを確認するまで、昼だろうが夜だろうが休んではならない。

発達
 心臓は、その目に見える最初の血液の一滴から、人体における全ての仕事の終了まで、動物生命の維持に必要な目的全てに適合するように賢明に記された仕様書に従っているように見える。心臓からの血液を追って行き、それが自身に形を与えた後の初仕事を観察する。そこで我々は、遠くへと送られる二つの動脈を目にする。その場所での建設活動とその仕事を見れば、結果として、脳が形成されていることが分かる。脳は動物生命という機械を推進するのに必要な、脳に始まり全ての線維、筋肉、臓器、そして靭帯へと広がる神経を供給するのに必須の力を生み出す機構の座であると、広く認識されている。この動脈は心臓から相当離れた場所に位置するこの力の機関に供給を行うだけでなく、腹大動脈として知られる、もう一つの栄養の大河を伸ばしている。そこから沢山の支流が分岐し、第一腰椎から仙骨の先までに位置するもう一つの大きな工場を供給し、維持している。この工場はその労働を営んで幾星霜、人体の全ての場所とその繊維に供給する物質を準備する仕事において、忙しく拍出してきた。これまでの著述家は、この偉大かつ重要な疑問に対する情報を与えてくれるほど親切ではなかった。私はこれを大いに強調し、読者の注意を惹きたい。その思索の最中、他の全てからその心を切り離し、この問いに答えるために。その問いとは、もし、体が直立した状態で足が前に滑って突然転倒し、凍った地面や氷、床や石の上、または、他の固い表面に対する速度のエネルギーにより、仙骨がズレたとしたら、腎臓の神経にはどの様な有害な影響が有るだろうか。二つの腸骨の間にある楔型をした仙骨は座骨に向かって、1/4インチ、1/2インチ、または完全に1インチ、下方に引き下げられ得る。それは尾骨そしてそこから腸骨へ延びる靭帯の形に、どの様な影響を及ぼすだろう。また、尾骨の形や腸骨に着いている尾骨の靭帯は、どの様な影響を受けるだろうか。尾骨は内側、上方へ曲げられたままになるのではないか。仙骨神経叢、腺器官系、脚の血液循環への影響は。ここで私は読者の注意を馬尾、脚、太陽神経叢、腹部の交感神経全体、感覚・運動・栄養神経、膵臓の神経、脾臓、肝臓、膀胱、リンパ系、細胞機構、乳糜槽、陰部神経、子宮の神経、そして男女共に生殖器系の神経、これらの位置と機能に向けさせたい。腎臓のブライト病、月経困難、滞積物が硬化するほどの鬱血によって肥大した卵巣、肝臓、腎臓、脾臓等、腹部の様々な臓器の巨大化、これらの原因へと理性の羅針盤があなたを導くだろう。月経時に差し込みを起こす女性の仙骨は、打撃や転倒等で捻れ、正常の位置からずらされているのを観察したことはないだろうか?
 この分野において、誰も書いてこなかった事だが、この組合せこそが、膀胱や子宮の重い線維腫や癌等、様々な疾病や奇形の大本の原因であると私は言おう。そして、腹部の端から端まで、配置され広げられた各種の神経の責務に、読者が注意を向けることを望む。

心臓の疾患
 心臓の疾患と治療法について語るとき、薬を使う臨床家の教科書に見られ、医療専門家に受け入れられ、実践されているものが、如何なるものであるのか、学生に知識として教えておくのが最良であろう。この目的のため、ウィルソンの『American Text-Book on Therapeutics(アメリカ治療法教本)』から心臓疾患について、全文を引用しよう。「全ての急性の心臓疾患において、治療は第一に表面的、第二に症状に基づくものと思われる。ほぼ全ての心膜の炎症状態は二次的なものであり、その原因は既に発動しているから、治療は一次的原因からのそれ以上の被害を防止することに限定される(ここまで表面的なものとなる)。本来の原因の手術、または、合併症によって、結果として苦痛等の症状の緩和、そして、最終的に死が回避される。」

闇の中
 これによって私がオステオパスに示したいのは、この最も学識のある著者の一人が書いていることは、薬医学の学生を自らの実践に導くため以外の何物でもない、ということだ。彼は、リュウマチ等を原因とする推測から始める。むしろリュウマチは、心臓が関節とその周囲に新鮮な血液を届けるのに失敗したことに起因する、一つの結果であることは、既に読者の知るところであろう。この時点で彼はクラブを振り上げ、原因の知識への希求を、闇の中に打ち放ってしまうのだ。彼のアドバイスは、水銀やジギタリス、阿片、甘汞、酸、塩基、興奮剤、鎮静剤等を患者の口に放り込むことから始まり、氷嚢、ホットパック、瀉血や静脈穿刺に到る。これらを彼は何に誓って言っているのだろうか?あるいは、あなたが何に頼って判断したら良いのか、彼は言っただろうか?あなたは空っぽのまま残される。それは彼の診断と治療が空っぽだからだ。彼の「使える」定義を読んでみて思うのは、あなたが解剖学と生理学を幾らかでも理解しているならば、あなたは、病気や薬の知識も無しに心臓疾患の治療に入って行くことに満足するには、余りにも解剖学、生理学、そしてオステオパシーによって得られる成果を知り過ぎている、と言わねばなるまい。あちらの路線にいる限り、あなたの旅路に希望は無い。ここで、オステオパスとして、我々は心臓を取り上げ、血液供給の総本部として、それが果たすべき責務を、我々が理解しているか見てみよう。だが、心臓とそれが供給する何百万もの川の冗長な説明で、読者の時間を不必要に消費したくはない。それら全ては、これまでに解剖の座学や実習、組織学、生理学で熟知されているはずだ。大小の動脈系全ての鮮明な図を心に描くことで、もう一度記憶をリフレッシュして頂きたい。そうすることで、このテーマを進めて行く上で、私と考えを共有することが、さらに可能になるだろう。

原因
 ここでは「心疾患」をテーマとして、機械ー生理学的な原因を紹介していく。不整脈、激しい鼓動や動悸、虚弱、その他、所謂「心臓病」と呼ばれる結果をもたらす原因に、合理的結論を与えられるか試みる。これらの疾患は古代から現代まで、狭心症、弁膜症といった多くの名の下に書かれてきた。だが、これまでのそれら書物は、「もし」「しかし」そして「ところが」と「おそらく」で締め括られ、医者が依って立つべき岩を一つとして提供して来なかった。医学生は証明書を小脇に抱えて、原因と治療法に山を張る新生活に突入する。その両目は、遭遇する病に対する無知の眼鏡で覆われている。 彼は、これまでに心臓病に効果があるとされてはいるが、その実、良く知りもしない薬を使って、盲目的に実験を始める。彼は教授から、甘汞は自由かつ頻繁に、モルヒネとジギタリスは注意をもって、静脈穿刺も注意して等々の指導、指示を受ける。そして、辛抱強く待っていると、患者はどうにか良くなるのである。
 暫しここに止まって野営するとして、パイプに火を着け社交的に一服し、尊敬すべき老「メディスンマン」に、心臓病に対して、致命的な水銀やジギタリス、モルヒネを処方する目的はどこにあるのか訊ねてみよう。その老医師は、それらの治療法が古くから多くの(原因と結果について何も知らない)医師によって使われてきたから、彼自身もそれを使うのだと、とても親切に教えてくれる。我々は馬に鞍をかけて先を急ぐとしよう。
 これが過去から現在までの薬医学の臨床家が行う手順の全貌である。威厳と賢そうな風貌で糊塗した天使的哲学者を装って野放図に使用してきた薬物の影響や、病気の原因について無知であることを、彼ら自身が認めている。

幾つかの事実
 私の解剖学と生理学の知識は限られたものであり、心臓疾患における機械的・生理学的原因について、ここに私見を披露することに、一定の図々しさと喜びを感じている。心臓の妨害を辿れば、動悸や狭心症、その他心臓疾患のリストを網羅する一つの原因に辿り着く。そこまでの唯一にして真の道筋を、単純明快かつ哲学的手法でここに示していることを、解剖学の知識があるなら、あなたは認めざるを得ないだろう。ここで、仮定してみよう。全ての部分とその機能が解剖学的にも生理学的にも完璧であり、心臓がちょうど必要な分量の血液を、全ての需要に完全に釣り合う力をもって、限り無く正確に受け取り、排出している、完璧に健康な人間がいるとする。この生命の映像は稼働するエンジンを映しているが、その脈拍を数えると、一分間に70回が記録される。このエンジンに対し、ここで少し人体実験を行ってみよう。足の小指の片方を紐で括る。この際、身体は脈拍毎分70回を記録した時と全く同じ体勢にしておく。我々には心臓が動きも力も全く変わらぬ脈拍を70回刻むと期待するに足る根拠があるだろうか?もし、小指一本の結紮により脈拍が71回になるとしたら、指二本だとどうなるだろう?では、ここで小指を縛っていた紐を外すと心拍が70回に戻ったとして、足指の爪を一つ引き剥がしたとき、脈拍が75回になったとしたら、あなたは驚くだろうか?さらには、もう一つ小指の爪を引き剥がしたところ、毎分80回に心拍数が上がったとしたら、あなたは驚くだろうか?一つは紐による単純な血流の停止だったが、もう一方の怪我の方が結紮よりも大きく、筋肉、靭帯、そして血管の収縮を引き起こしたのだ。解剖学と生理学の知識のある者であれば、論理的思考に基づき以下の結論に至るだろう。つまり、仮に心臓から最も離れた、最も小さな足指における妨害であっても、心臓の規則性や脈動を阻害するのであり、動脈血あるいは静脈血の停止や刺激の要因となるものは、影響を受ける脈管に血液を通すため、その抵抗に応じて、心臓に大きな労力を要求する原因となるのである。圧迫された動静脈に血液を通すため、何日も或いは何ヵ月も、心臓が疲弊するまで酷使されたとしたら、心臓は疲れ果て、震え、動悸を起こす、と結論付けても差し支え無かろう。読者諸兄には、寛大さをもって、もう少しご辛抱頂きたい。ここまで私は、妨害された循環が心臓の障害の原因であることを証明するため、ホメオパシーの一回量のごとく、足の小指を引き合いに出してきた。これから、より大きなスケールの話を始めよう。それで、我々はアロパシー(逆症療法)の「無知の皇帝」と遣り合わなければならない。彼には血管の一本一本にかまけている暇など無いことは想像に難くないが、我々はともかく、合理性と事実をもって彼を打たなければならない。それは特定の需要を満たすため、大動脈から数多の動脈が分岐しているという解剖学的事実であり、ショックや捻れ、引張りなど、人間の身体が遭遇または経験し得る事故の世界で、肋骨の一本、或いは十本、最悪全ての肋骨が押し上げられるか下げられるか、押し込まれるか、出されるかした場合、肋間動静脈・神経の幾つかまたは全てを妨害することになるという事実である。この変形を見ても、彼はリウマチが人間の心臓における不自然な働きや苦痛の原因だと疑うのだろうか?この尊敬すべき老賢人が、もし解剖学を考慮するなら、自然とその働きを証人として、この哲学が真実に基づくものであると気付くだろう。そして、動脈の阻害が心臓の正常な活動からの全ての逸脱に先行するということにも。では、死を導く心臓の問題をもたらす機械的原因について、再認識して頂けただろうから、ここで心臓疾患に苦しむ患者に呼ばれたときのために、助けになることを幾つか記しておこう。頭との連結とともに、首を注意深く検査すること、そして、首の全ての関節が他の関節のベアリング全てに対し完璧であり、全ての筋肉が他の筋肉や突起と絡まっていないことを、きっちり確認すること。ずれた頸椎が心臓から脳へ行く椎骨動脈の通行をブロックしているかもしれない。頸椎内で動脈がブロックされれば、結果の一つとして心臓が邪魔を受ける。もし、首の関節が全て正常で、動脈をブロックするものが何もなければ、我々は第一胸椎と関節する第一肋骨から、肋骨が脊柱に対して正常な位置にあり、横突起と正常に関節しているかどうか確認を始める。その肋骨は椎孔を閉じて、そこで椎骨動脈を止めてしまう程前方に引っ張られているかもしれない。もしそうなら、心臓の激しい活動と不規則性が見つかるだろう。もし、第一肋骨に異常が見当たらなければ、第二、第三、第四肋骨に深刻な脱臼が発見されるかもしれない。それらは、肋間の「枝」たちを止めてしまっているかもしれない。心臓がどちらかの第一、第二、第三、第四肋骨に血液を送ろうとするとき、肋骨の捻れやストレインまたは、脱臼によって肋間のスペースが潰され、心臓を阻害する明確な原因が構築される。すると心臓は、特徴的な長く重い拍動で肋間動脈を供給しようと頑張るのだ。論理的思考の過程から、心臓病と呼ばれているものが、多々ある結果に過ぎず、原因としてどこかで血流が抑圧されているために、それぞれの結果が生じ、弁や神経その他の「心臓病」の原因となっているのだ、という結論を我々は堅持するだろう。
 私はここに、我が校の生徒が容易に理解できるように、心臓の問題における原因と哲学が充分に語られたと思っている。彼らがその徹底した解剖学の理解を、心臓疾患の治療に賢く応用することを私は信じて疑わない。

動脈瘤
 動脈は巨大なサイズになることがある。我々はこれを動脈瘤または、留置された血液の収容部屋と呼ぶ。動脈はもっと先まで流れて行かなければならないから、論理的思考に基づけば、障害物が血液の流れを制限していること、そして腫瘍が結果であり、動脈、静脈に関わらず、全ての異常な残留の原因が障害物であることが分かるはずだ。妨害されていない血液は、腫瘍を形成することはできないし、身体のどこかに居座り不調和を許容することもできない。下血は、血液の供給と循環の変異に起因する、結果である。血液は、腸粘膜の終末点で静脈に入って、その積み荷を下ろすことが不可能なレベルまで、腹部の静脈が興奮させられ収縮してしまっているのを発見する。粘膜が運ばれてきた血液を留めておくのに失敗すると、窒息死した最初の血液が腸の中に出口を見つけ、蠕動運動で運び出される。こうして血液の残留や排出がおこり、死が供給を止めるまで続くのだ。

リウマチ
 関節で痛みが始まる前に、関節から全ての気体と風が、去ってしまっていることに気づく筈だ。骨の摩擦のせいで、電気刺激が起こるのである。特定の気体が、関節の骨の間に必ずなければならない。そうして我々は、関節滑液が対する骨の端を自由に通れる位に、骨同士を十分に離しておく気圧の重要性を認識する。人体の全ての健康な関節には、気体に対する自然な需要がある。論理的思考が、全ての関節で定期的に気体が運ばれるか、そこで生成されていることを我々に信じさせる。リウマチが現れる前に、骨同士を隔てている気体が涸渇する、二つかそれ以上の関節が一つの電気回路または区分にあるため、そこに摩擦と電気熱が続く。これは、バッテリーに投げ入れられた、ある骨または複数の骨の、二つまたはそれ以上の骨端の関節面、または、それらの区分の機能的活動において独立しているそれぞれの区分にあてはまる。説明のために、液体と気体で満ちている、寛骨臼または膝関節における大腿骨を例にとる。骨をあるべきところに固定するため、靭帯と膜で結びつけ、液体を保持するための小部屋を用意する。神経毒に匹敵する電気的活動を引き起こす、摩擦と熱の原因となる、骨と骨の圧着を防止するために、これに気体圧が加わらなければ、完成とならない。これを欠けば、神経痛やリウマチ、座骨神経痛等、今日まで哲学者達によって解説されてこなかったリスト一杯の疼痛や苦痛が出てくるのだ。衝撃を和らげるものが無い状態で、高い所から跳んだ時のように、骨の堅い端と端を押付けたら、液体や気体に守られていなければ、挫傷したり潰されたりして刺激が起こるだろう。もしそうなのであれば、関節を靭帯で結び、その靭帯の鞘の中に空気を保持することが、衝撃から骨の先端を守っていると結論付ける以上に、良い論理はあるまい。我々はそれらの骨が、破壊的な負傷を受けないように、取り扱う準備をしなければならない。その様な空気の抜けた関節が、肥満または痩せの始まりでは無いのか?
 この論理の平原では、豊潤な作物が、思考の鎌で刈り取られるのを待っている。この平原で、あなたは結核、浮腫、腫瘍、ひきつけ、白髪、禿、等々、驚くべき数の病気について「何故」を見、知ることができるのだ。

内・外乳動脈(内胸動脈、外側胸動脈)
 乳腺の動静脈・リンパ循環の混乱と遅滞または、その動静脈・リンパ循環の神経の妨害は、この腺器官の疾患に対する、オステオパシー診断家の極めて注意深い調査に意識を向けさせるに足る原因である。そして、胸の腫瘍、甲状腺腫、扁桃腺と頚部および胸部の腺とリンパ系、目の疾患、胸部全体の内外全ての臓器における機能の乱れ、これらの原因に科学的な診断を立てることが妥当だとされる前に、オステオパスは、肋骨が胸骨または脊椎との関節で押されたり弾き出されたりして、乳動脈が圧迫または邪魔されていないか、知っておくべきである。我々は内乳動脈が、第一肋骨から始まり、そして、骨盤まで延びる、非常に長い動脈であることを思い出さねばならない。より良い健康は良い機能に依存し、より悪い健康と妨害が、当然の如く、不完全な動脈活動と不完全な静脈とリンパ管の排液によって予想される。したがって、我々はこの対象に対して、真に正常な状態からの機械的変位について深く徹底した調査を行え、という当然の警告を受けるのである。この命の川が臓器や腺器官、膜、そして筋肉に供給する目的で旅する領土の長さ、そして広さこそ、生命に対するその重要性の顕然たる証拠なのだ。


第七章 横隔膜

新発見
 全ての発見の前には、発見に対する需要が存在する。どの様な発見であれ、一時、公開され、質問の的となる。特定の新事実に皆が興味を示すからだ。農家達がどこか足りないものを感じ、話している。すると、より良い鋤、鎌、立っている穀物を刈取る刈取機について探究が行われる。思想家は思想を実践へと変え、穀物を刈り、束ねられる前の、熊手で集められる状態にする。彼の勝利は、収穫の王として、世界に告知され、受け入れられる。発見者は「この穀物を集められたら」と思う。彼は因果関係の偉大な原理から論理的思考を始め、自らの発明に、結束人が束を作れるように穀物を集めるための独創的な構造を追加するまで、徹夜する。発見者は傍に立って、人間の形態を観察する。手と腕、そして結束帯を。彼はその動作を見る。そして、再び因果関係を考え始める。彼は四六時中思索し、思考の才能により、穀物を束ねる機械を産み出す。ここで他の提案が上がる。機械の刈り取りの過程で、どうやって小麦を選別するか。彼の信念では、精神の活動以外にこの問題を解決するものはない。彼は因果関係を考え、夢にまで見る。彼の頭は「原因」と「結果」という言葉以外の母国語をすっかり忘れてしまったかのようになる。彼はどこに行っても、因果関係について話し、説教をするようになり、仲間達は、彼が精神的にやられてしまって、その内、隔離病棟に入れられるだろうと考える。彼は周りの人間の無理解を嘆き、一人籠って、望まれた追加機能を組み立て、袋に入れるばかりに穀物を脱穀する。彼は問題を解決し、隔離病棟は彼のためではなく、隣人達のためにあることを証明する。哲学者の眼前に絶えずある因果関係をもって、彼は猛り狂う波を物ともせず、大海に漕ぎ出す。彼は嵐を恐れない、なぜなら彼は、押し寄せる波を上回るように自らの船を建造したからだ。そして、世界はまた一つ彼の勝利を記録する。彼は言う「因果関係の法に基づき、私は何百キロも離れた母と話そう。」彼は母親の部屋にある小さなベルを鳴らし、彼女の安眠を妨げる。震えながら年老いた母は電話に歩み寄る。「もしもし、どち様?」答えは「僕だよ、ジミーだ!」そして彼は訊ねる。「僕は誰と話しているの?」彼女は言う「マリー・マーフィー婦人です。」答えは「母に神の御加護を!僕は今テキサス州ガルベストンにいる。そして、母さんはマサチューセッツ州ボストンだ。」彼女は嬉し涙に咽び、彼は彼女の震える声から全ての感情を聞き取る。
「遂に成功したんだね。私はお前が、最後には成功させると微塵も疑わなかったよ。お隣さんたちが、千キロも離れた所から声を届けるには肺は小さすぎるし、舌も短すぎる。だから、息子は隔離病棟に入れられるって言って、私を死ぬほど怒らせたけどね。」

「エウレカ!」
私は病気の原因を教える前段階として、この因果関係の哲学に基づく長々しい前置きをした。これは私にとって絶対的に明確で、その結果において正鵠を得たものであり、ピタゴラスの名の下に「エウレカ!(合点!)」と言える。時が記録に刻まれ始めてからこの方、全ての医師と治療師が探究してきた病の一般的原因を知るためには、冷静な論理的思考の高等裁判所において、最も厳格かつ熱心な主尋問と反対尋問を受けねばならない。医師達は、習慣が確立した方法で、病気治療に最善を尽くしてきた。たとえその治療体系の下、失敗と高い致死率があったとしても。彼らは自分達の学校が、診断や予測、治療において採用してきた症候学の先に行くことを良しとしない。彼らは「職業倫理」の決まりから外れると、「悪評犬を殺す」の信念に基づく医師協会の兄弟愛と援助を失ってしまうのだ。

(薬の)医師
 薬の臨床家達は言う「組合にいれば安全だ。ここから離れないことにしよう。」そして、「汝他の物を口にすれば、必ず死が訪れる。協会に帰依せよ。」の号令の下、彼の学校で全ての学生が訓練されたように行い、生きていく。
 真理の探求者はまず始めに、どの様な種類のものであれ、束縛や協会から独立していることを宣言しなければならない。そして、自由に探究し思索できなければならない。彼は自らの観測所を自らの丘の上に建てなければならない。彼はそれを規則や王、教授、あらゆる種類の学校、宗派より高い想像の次元に建設する。彼は自らの精神の帝国の皇帝でなければならず、彼が観測をする間、それを妨げるものから自由でなければならない。私にとって論理は明快かつ平易であり、それを支持する事実は光輝いている。私は頑迷と不寛容を変えることで殺されることになろうとも、これを勧める者である。この哲学は、解剖または人体解剖学を徹底して修めた者のみに向けられるものだ。バッテリーとしての脳、血液を復活させる機関である肺、そして、生命機械の全力かつ十全な活動の維持に必要な骨や筋肉、その他の部品の生産に適合する物質を産み出すことに関わる、全ての区分とその支部に、血液その他の液体を供給する兵站部隊長たる心臓、これらを含む生理学的設備とその働きを、あなたは理解していなければならない。
 読者におけるこの知識無しには、論理思考の弾薬庫に辿り着く前に、この哲学の言葉は空疎なものになるだろう。これは論理思考ができ、論理思考をし、さらに論理思考をしようとする独立した男女に向けられたものである。

内臓神経の重要性
 内臓神経の開始部に留まり、これを注視してみよう。ここで我々は、感覚・運動・栄養神経の枝の下部が全て、横隔膜から斜めに下りて来て、知覚神経システムの陰部神経と仙骨神経に枝を出す太陽神経叢へと向かっているのを目にする。それは丁度その位置で、絶えず血液形成のプロセスが十全に作動するように維持する脳からの指令とともに、仙骨の「命を与える」神経節に加わる。ここで疑問が湧く。この働きはどこからどのように供給されるのか?答えは、神経供給所としての脳、そして血液供給所としての心臓からである。これらの供給は、全ての機関の形を保ち、動作を供給するため、二つとも横隔膜の上から来る。その動作により、心臓へ送り返すために乳糜が生成できるのかも知れず、それは血液の中に作られ、動脈に戻され、必要とされる部位が構築されるのに使われ、必要とされる正常な電力産生のため脳を栄養し続ける。横隔膜の上に、血液と神経の三つの供給源としての心臓、肺、そして脳がある。これら三つは皆、強力な壁に守られており、これにより血液と神経の力が求められる限り、命の供給を維持する役割を果たすことができる。しかし、それらは血液も神経の原料も生産しておらず、常時、ふんだんにそれらを得るために、製造所に取って代わり、外地から原料を買い付けなければならない。自然は製造所をこの胸のラインから上に置き、未加工の原料をこのラインの下に発現させる。さて、成長が動作と供給を意味するならば、我々はこれらの部署を友好的に提携させ、この隔壁または横隔膜の上からのエネルギーをその下へと導かなければならない。これにより我々は必要に応じてそのパワーを使える。この隔壁には、製造作業を行うための供給とエネルギーを持つ、血液と神経が貫いて行けるように、開口部がなければならない。
 これら全てがなされた後、どんな原因であれ捻れ、圧迫、妨害的な折れ曲がりが現れたとしたら、乳糜やリンパが戻ってくる機構、精気を供給する感覚刺激、上にある心臓から来る動脈の供給を回収する静脈の働き、これらは遮断されないだろうか?そして我々は、横隔膜から下の生命のプロセスを、全て止めてしまう原因に気付かないだろうか?言い換えれば、我々は完全な鬱滞状態に直ぐなってしまう状況に置かれないだろうか?動脈が静脈系を一杯にしたら直ぐに血液を心臓に戻す感覚刺激がなければ、静脈系として知られる横隔膜以下の死んだ領域に血液を送り込もうと試みて、心臓はエネルギーを磨り減らすしかない。そこは、太陽、仙骨そして陰部の神経叢からの静脈に感覚刺激が届くまで死んだままである。

健康な横隔膜
 ここでは再び、心臓、肺そして脳を、腹部と骨盤に限定される、命の臓器から隔てている横隔膜を取り上げる。横隔膜は健康と不健康にどう関わるのか?横隔膜を分析してみよう。その構造と用途の分析だ。それは血液がそこを通り抜ける開口部の分析であり、胃に食物が下りていく開口部の分析である。この下にあって、身体の硬軟両様の部分に必要な、種々の物質を製造する偉大な化学体系を運営している腹部への神経供給のための通路と開口部を、我々は注意深く分析していく。我々は、リンパ系、子宮、肝臓、膵臓、腎臓、生殖臓器の神経供給について、それらが何者で、何をし、何を必要としているか知らねばならない。そうして初めて我々は、命の樹により表現される理性の精髄の入った杯から、自らの心を潤すことができる。
 横隔膜は、病気の「なぜ」を探し求める者に、多くのものを与える。それは我々が、各々の臓器と区分、その各部と用途に対して完全な知識を得、それを他と組合せるならば、幾つかの事実へと辿り着く助けとなるだろう。
 薬の医師は病気の真の原因に対する知識の欠如により、自らの治療薬で結果と格闘してきた。彼は痛みを薬で治療し、これを弱める。また、血液の動脈と分泌器官の導管によって、臓器や身体の各部に運ばれ、排泄器官によって取り上げられ運び出されなかった、過剰な血液を洗い流すことで、鬱血を治療する。彼はサイズの異常を見るが、その様な大きさまで成長させた原因の探索はせず、患者に休息と緩和を与えられないか探る。それから彼は、強さを与える為に強壮剤、心臓の活動を増加させるために興奮剤というふうに投薬を行い、局所的な滞留物を全身的な排泄システムへと押しやるため、廃液を腸、膀胱そして皮膚へと運ぶ。ここでオステオパシー医に、身体の筋肉という猟場で、正常な血液供給を停止させ、あるいは神経の活動(その基地が死んだ物質を集まる端から運び出し続ける排泄システムに十分なパワーと活動を与えている)を停滞させる、どんな折れ曲がりも狩り出させよ。そして、立ち止まり、自らに横隔膜の真の状態を熟知させよ。それは位置において、置かれている通りに正常でなければならず、如何なる正常からの逸脱も許容されない。それは、自然がそうあるべしと意図した通りに、ドラムの打面のように張られた状態を維持していなければならない。それは胸の内周に全体的に付着し、第七肋骨から胸骨の下端へと下る間に5または6の肋骨を横切り、第四腰椎へと下りて行く。腸や腹部臓器の上、そして、心臓と肺の下にある、傾斜の続く床板である。その全ての場所で、タイトさにおいて正常でなければならず、当然、大動脈や神経、食道など命の物質の供給と循環に寄与するどんなものであれ圧迫を加えられないように、折れ曲がりや皺があってはならない。さて、では横隔膜の正常な形を変えてしまうような脊柱や肋骨の動きが存在するのだろうか?もしあるなら、何処に、そして何故なのか?

位置の逸脱
 横隔膜は(その支持が揃っておらず、正常な位置にないとき)体の他のどの部分と比べても、病気の原因として、恐らく最も理解されていない。そこには、神経や血液、食物が胸からその下へと通って行くとき通過する開口部がある。それは胸骨の下端から始まり、後下方に傾斜した格好で、第3か第4腰椎へと肋骨を横切って行く。エプロンのようにその上に在るものを支え、腹部の臓器を胸から隔てるフェンスになっている。その下は、胃、腸、肝臓、脾臓、腎臓、膵臓、子宮、膀胱、偉大なリンパ系と内臓の神経供給、栄養と命の供給システムとなっている。身体の全ての部分は、直接的、間接的にこの偉大な筋肉の隔壁に繋がっている。それは正常であれば、全ての動物で助けとなるが、その位置を保持している5本または6本の肋骨が、下方または内方に落ち込むことで脱出してしまうと、正常な血液供給の遅延と、横隔膜以下の静脈の鬱滞が、これに続くこととなる。血管に落ち込んだ横隔膜が原因となる圧迫により、栄養のための血液と共に下りて行く大動脈は抵抗に会い、不純物を含んだ静脈血と共に戻って来る静脈もまた、大静脈を通して心臓に戻ってくる際に、横隔膜で妨害に会う。結果として、心臓のトラブル、肺の疾患、脳、肝臓や子宮の病気、腹部の腫瘍、そしてリストを通して続くこれらの結果は、その原因を横隔膜へと辿ることができるのだ。

位置
 横隔膜が命の機構と臓器の健康状態維持に大きく影響していると、私は強く印象を受けている。何故そうなのか、私は今理解しているので、その理由の幾つかをお教えしたい。第一に、それは血液のエンジンたる心臓と、空気のエンジンたる肺の直ぐ下に、賢くも配置されているのが分かる。この強力な壁は、これらのエンジンが生命の経済を営んでいる間、全身と全ての物質をそこから遠ざけている。各々のエンジンは、それら自身と全体的な存在である「人間」のその他全ての区分に対する、厳格な死の法の下、聖なる義務を果たしている。もし、それらが仕事を怠ったり、我々がこの壁を取り去って、これらの生命エンジンに与えられたスペースを肝臓や胃、脾臓が占拠するのを許せば、確実に混乱が結果となり、肺へと血液を送り出す心臓の能力は敗北し、トラブルの原因となる。
 幾つかの病気を取り上げ、横隔膜の異常刺激に全く関わりの無い気候性の熱病が、一つでも見付けられるか、論理的思考の厳しい試験にかけるとしよう。仮に一般的なbilious fever胆汁熱の原因を例にとる。それは総じて四肢と筋肉の疲労感とヒリヒリする痛み、背骨、頭そして腰部の痛みから始まる。調査のこの段階では、我々は原因に関して、未知の外洋に取り残され、推測の域を出ない。誰かが「マラリアだ」と言い、名前を付けるに留まり、そこで止まってしまう。もしあなたが、発熱と嘔吐を伴う、その拷問のような頭と背中の痛みの原因を尋ねると、彼は「脳と脊柱そして胃を冒す特徴的な診断上の傾向から、原因はマラリアだと最高の医学的権威が同意している。」と答え、キニーネを投与し、言うことは言ったし、やることは全て終えたと考えながら去って行く。
 だが、論理的思考は探求者を痛みの原因へと導くだろう。それは、全ての血液が、最初に乳糜として、直接的に横隔膜を通過して、心臓と肺に送られることを思い出させる。先ず心臓へ、そして肺へと胸管に導かれて行き、これと同時に、全身から血液の川が心臓へと注いでいる。それらの多くは、病んで古くなった食物からの不純物を非常に多く含んでおり、横隔膜の下のリンパ系から来ている。乳糜の多くは、命を保つ純粋な血液が十分になければ、胸管に入り肺に行くまで、死んだままだ。そうして、病が起こる。横隔膜は、脊柱の両側の肋骨が下がり、前下方に大動脈と大静脈を横切って落ち込むと、腹腔動脈を上から圧迫し、腹部を完全に停滞させる原因となる。すると血液は妨害され痛んでしまい、それがデザインされたように各部の生命と健康を維持することは、もはや望めなくなってしまう。自然は、悪い材料で良い仕事をするとき、自らの法則に真でなくなってしまうことを我々は知っている。

神経衰弱
 既知の事実を大きなスケールで論理的に考察しよう。全てのシステムが動き、自然が振り分けた仕事を実行する機会を全面的に奪われているとき、どうして、この患者、あの患者で完全な衰弱が起こるのか?運動神経は全ての物質を然るべき所に届け、感覚神経は需要と供給を審判しなければならない。そして、栄養神経が絶えず活動し、全ての場所を十分に供給していなければ、必ず不全が起こる。リンパ系、肝臓そして腎臓における自然の要求、また、神経が絶えず働いていること、そして、各神経におけるどの様な混乱も、それらが管轄する生命機能のどれかを障害することを、我々は決して忘れてはならない。
 横隔膜における食物または血液の遅延はどの様なものであれ、許容されるものではない。なぜなら、どの様な異常刺激であれ、筋肉の収縮や、腹部における動脈供給の一時的、局所的、或いは完全な停止と緊密に関係しているからだ。それはまた、大静脈を強く押し付け、胃、腎臓、腸、リンパ系、膵臓、筋膜、細胞性膜、神経のセンター、神経節、そして腹部にある命を司る臓器の供給システム全てからの静脈血の帰還を完全に停止させてしまうかもしれない。つまり、圧迫、狭窄、収縮により、横隔膜の上或いは下で血液の通行が停止し、酸欠で死ぬ程長く血液が留められ、結果、病気の原因となるのだ。
 このようにして我々は、腎臓のブライト病(腎臓炎)、子宮或いは卵巣の病気、黄疸、赤痢、白帯下、生理痛、痙攣、消化不良、そして、「原因不明」として記され、「取り敢えず切ってみる」の法則で治療されている、リストにある全ての病気の原因を目にすることになる。我々は、第12胸椎以下の全システムが使う血液は、全て横隔膜を通過すること、また、神経供給も横隔膜を通過することを知っている。この既知の事実を我々は、横隔膜の不健康な状態は、多くの病を導くことと密接に関わるということを知るための論理的思考だけに用いる。横隔膜は、筋・線維的な臓器であり、血液と神経の供給を自らの上にある場所に頼っている。その供給は神経と血液に対し、自由かつ純粋に与えられなければならない。そうでなければ、まずもって臓器が病んでいることになるだろう。そこには全体的な萎縮或いは浮腫が見られるかもしれない。それは自らの変形の原因になることに加え、心臓に戻る前の静脈血を肺で浄化するのを助けのために、上ることも下りることも出来なくなっているだろう。形態と活動両方において健康な横隔膜無しには、結果は病気に直結する。これは論理的思考にのみ調和する。大工は腐ったり、捩れたり、曲がったりした木材でどうやって良い家が建てられるだろう。仮に、もし彼にそれができるなら、痛んだ血液でも健康が望めるだろうが、我々が建物に良い材料を使わなければならないのなら、自らの思考を慎重な検査官にして、横隔膜、胸膜、心膜そして筋膜を通る血液の通路を検査すべきである。病気は他の場所と同じくらいには、筋膜と上皮でその仕事を始める傾向にある。だから純粋な血液と健康な筋膜が求められる。なぜなら、全ての機能は、良い結果にも悪い結果にも、同等に責任を負っているのだから。

神の審判
 ある時、主は「人間を創ろう 」と言われた。主は人間を創ってから、彼を調べ、それが良いものであると言われた。ただ良いのではなく、非常に良いと。主は、何が良いか、知っていたか?彼には有能な審判たる技能が備わっていたのだろうか?もし彼が、精緻な作品を審判する完璧な技能を有していたとしたら、彼の承認は、それが為された時、完全性に裏打ちされた精神的権能の判断である。その建築家かつ熟練の機械工が、人間を仕上げ、空の鳥、地の獣、海の魚に対して統轄権を与えたのだとしたら、その人、その存在、その上部構造は、万物の創造主たる神が、彼に管理と実行のための心と機械装置と一緒に、強さを装備させたことの証明にならないだろうか?これは実証され、我々がその完全性に疑いを抱かないことであり、その優良さ、素晴らしさから、この存在に属する全部分の詳細な検査に入り、また、その存在全体が創造された目的たるその用途とデザインについて熟知するよう、我々は訓戒を受ける。我々は心から、各部の用途の詳細、材料の用途、その形状、その形状の目的、どこからその物質が得られ、生活を通じて、その種類、形が、どのように生産され維持されるのか、それがどの様に動かされ、どこからそのエネルギーを得、何の目的で動くのか、これらの知識に関心を持っているか?頭部、心臓、肺、胸部、胃、肝臓、腹部の他の臓器、脳、心膜、そして横隔膜における厳格な検査に対する需要は、決して無くならない。この検査において我々は、内蔵はどれであろうと、また、血管や他の物質も何であろうと、どうして、その与えられた場所に存在するのか、その理由を知らなければならない。そして我々は、身体を旅する血液の川を追って、走らなければならない。
 我々は調査船を大動脈の血液と共に出航させ、この命の潮流に乗って行き、横隔膜とその下にあるもの全てに供給を荷下ろししていくのを目にする。我々は、この川のどの支流が足の親指や小指、また、足全体の終着駅まで流れて行くのか、着いて行き、見なければならない。それから我々は、大静脈の道を通じて、死の海の水を運搬し、疲弊し使い古された血液が船に積み込まれ、運河を通じて心臓へ戻され、注がれるのを観察する。奇静脈や半奇静脈の流れ、また、腕や頭の静脈の内容物が、補給隊長の心臓と、仕上げの整備士である肺のいる、命と栄養の偉大な病院への途上で、大小の川から無名静脈(腕頭静脈)へと注ぐのを注意深く見るように。自らに、この偉大なる者の形と場所を熟知させたなら、我々は、生理学的作用に関する知識を得られる、上のクラスへと入って行く準備ができたことになる。我々は、血液や骨、そして、そこに見られ、神経系の感覚、運動、栄養、随意、不随意の活動を持続するのに必要な全ての要素の「何故」と「如何に」、そしてリンパ系と、脳、心臓、肺の命を維持する力、腹部のシステム全てにおける、身体の最も下の細胞性膜から最も上の臓器までの部分と様々な活動と用途の「何故」と「如何に」を熟知する。
 身体を二つの連結した部分に分ける横木の形状を考慮し、その用途を論理的に考えると、心臓と肺には、その機能を行うために適した、ゆとりある空間が必要不可欠であるという事実に辿り着く。この区分けをしている筋肉の上にある心臓、肺、そして脳と、横木の下に位置している機械装置の間のフェンスが取り払われたら、どの様な結果が続くだろう?我々は一目見ただけで、下へと正常な供給を運ぼうとする努力における心臓の正常な仕事と、肺の血液の準備に要求される空間の侵害の範囲で機能停止が起こり、脳とその職責である横隔膜の上のエンジンと下の全臓器への神経エネルギーを通すことが、妨害を受けると分かる。

木の教え
 生きている木の生命は、皮とその下に広がる表層の筋膜の部分にある。木の残りの部分は分泌を担っている。その排泄システムは最初に地表から上方に向かう。それは春になると、凍った不純物を洗い流し、その後、幹を通して根に向かって地面の方へと物質を分泌し、運んで行く。それはさながら、母なる大地に接着した胎盤のようであり、地面の上にある線維や葉っぱといった木の部分の物質全てを適格なものにしている。一年毎に、年輪と呼ばれる丸い輪として見て分かる、新しい木の部分が生産される。前年に完成された年輪は、今や過去の存在となり、それ自体に生命の活動は無い。だがそのプロセスは、全ての生気を無くした存在と同様、命の他の様相であり、自らの命を膜と樹皮の下に広がる細胞の活動に頼っている。それは化学的工場としてのみ働くことができ、未加工の原料を供給する。それらは表層の筋膜によって取り上げられ、肺に送られ、木の全ての部分に戻って行くために、死んだものと生きたものが取り替えられ、命の形態を維持している。母なる大地が胎盤を刺激し、それが古い幹の上に発展し形成される、次の新しい存在の成長を始めるまで、その命のプロセスは冬の間、停止している。
 木の中でこの生命力の形態が停止している状態では「膠着した生命」と我々が呼ぶ、もう一つの原理が支配し、もう一つの木を構築する。それは生きている木の丁度逆の働きである。それは死んだ物質に膠着した生命の原理を付与し、自らの形成力に従い木を構築する。それはキノコやサルノコシカケ、他の膠着した生命に特徴的な存在を産生する。こうして我々は、血球が死んだ状態におかれ、最早動物生命をサポートできない程、血液が結紮され塞き止められると、植虫類等の結合の偉大な法則に特徴的な全ての形体を形作る、ということを論理思考する準備ができる。それは、全ての腺器官システム、リンパ系、細胞性、神経節、また、この様な成長に影響を受けやすい体の部分全てを含む、リンパ節、膵臓、腎臓、肝臓、子宮の腫瘍である。結果、我々は腹部とそこにある臓器に見られる(結核)結節を説明することができる。同じ法則が、心臓や肺、脳、各組織、腺、筋膜等の生気を失った物質を受け取ることができ、それを排泄する能力に欠ける全ての部分に、等しく適用される。浮腫が最初に液体の遅延を現す印となるように、粟粒結核から分かっている最大の形体の結節まで導く、最初の一歩がある。それは、膠着した生命または「死んだ物質の」命の原理の結果である。
 我々は読者の注意を、横隔膜が血液の通路を締め付け、停止させ、初期から完成までの結節、癌、嚢胞、そして、頚部、顔、頭皮と筋膜の腺組織の肥大をもたらすことに、向けさせたい。この膠着した生命において、探検家である我々には、結核結節、腫瘍、癌、そして潰瘍の原因に導いてくれる羅針盤がある。横隔膜は語る「我により汝は生き、我により汝は死ぬ。我はこの手に、生と死の力を握る。されば汝自身を我と親しくし、安んじよ。」

第八章 腹部

抑制
 これまで治療の手段として神経の抑制(インヒビション)という考え方に、重きが置かれてきた。私に言わせれば、抑制こそ、おおよそ普遍的な病気の原因である。ダングリソンは「抑制」を制限すること、抑圧すること、一方で「刺激(スティミュレイション)」を駆り立てること、と定義しており、これが生命の経済活動を活発化させる。
 読者の利益のために、解剖学の知識を新たにして頂きたい。そうすれば、患者を治療するときの導きとするために、私が真実として述べていることを完全に理解できる。私が指摘するのは、腹部を押したり、引いたり、こね回したりすることで、良い結果よりも害を与える危険性があるということであり、より大きなエネルギーへと神経を抑制したり興奮させることにより、腹部の臓器の正常な機能における自然の回復作業を助けるという考え方である。
 私の40年にわたる観察と実践に基づくと、腹部臓器の聖域で、押したり引いたり、指を突き立てたりすることは、患者に対して全く良くないばかりか、腹部の各臓器に神経の枝を出す太陽神経叢を傷付けることで、大きな害をもたらす。この神経センターに、腹部機能の精巧な作業の全てが依存している。私は「手を放せ」と言いたい。脊柱と肋骨だけにしろと。もしあなたが、肝臓におよぼす脊髄神経の健康を回復する力を知らないならば、勉強するか辞めなさい。何故なら、それを知らなければ、あなたは只のホーホー鳴いているフクロウみたいなもので、頭脳より作業なのだ。腹部の内容物と臓器によってなされる仕事を知ろうとする者は、無知の危険性も同様に知るべきだ。そして、この聖なる哲学において、腹部の治療における粗野な力は、如何なる部分であろうが、許容されるものではないことを。

オリジナルであれ
 あなたは論理的に考えなければならない。論理的に思考せよ、さもなくば、最終的に全ての事業において失敗することになる。自分の意見を形成し、得られる全ての事実を選択しなさい。比較し、決定し、そして行動せよ。誰の意見も使ってはならない、ただその成果のみを受け入れよ。
 これまで頭、首、そして胸郭を通過し、その各区分に属する病気の短い説明をしてきた。観察と議論のために、我々の作業を五つの部分に分けたが、ここで四番めの区分を取り上げる。番号の上では、頭が一番、首が二番、胸郭が三番となり、腹部が四番、骨盤が五番となる。私はこの恣意的な分類を、身体の様々な区分の働きを体系的に観察できるように設定した。特に腹部臓器について、良い健康状態におけるそれらの完璧な働きに関する、確実な知識をより深めるという観点と共に。各臓器が、それが正常な位置にあるときに、占めている正確な場所を知ることが重要なのだ。それを一般的な原則として知るだけに留まらず、病気について学ぶ学生が受けるどの教えよりも、完璧に近い、高いレベルで知らねばならない。我々は、各々の臓器の完璧な位置と、それらが行う仕事を完遂させるための血液、神経、栄養の供給、そのサポートが何処から来て、どの様に適用され、疲弊し病んだ物質全てを排泄する自然な機能によって、どうやってそれが純粋な状態に保たれるのか、知らねばならない。この知識によってのみ、我々は、健康が意味するところの骨子である栄養と回復における、大小両方の様々なバリエーションを探知することが期待できる。各々の臓器は、それが依存する栄養の経路から、固有の液体物質を抽出する創造者であるように見える。そして、このプロセスに必要とされる量と質は、異論を差し挟む余地のない、絶対的なものである。これが、我々が異常性と取り組み、正常な完全性を再調整するために、勤めなければならないケースである。

偉大な宿主
 腹部を見渡し、その主を数えていく、可能な限りシステマティックに。我々は、腹部から胸郭を隔てている横隔膜から始める。腹部には肝臓、脾臓、膵臓、胃、二つの腎臓、膀胱、小腸と大腸、大網、腹部臓器の全システムに血液を供給する腹大動脈、腹大静脈、分泌と排泄の臓器とリンパ系、そして、骨盤の床の上に見られる全てがある。腹部領域にある全ての臓器を目の前に据えておかねばならない。そして、全ての臓器の完璧さを前にしていると感じねばならない。これで我々は、本物でも想像でも、場所、形、そして、目の前にある全ての物の機能の変化を比較し始めることができる。完全な横隔膜とは、第6肋骨から始まり第3と第4腰椎に終わる円形の付着部全てにおいて、完全なことを意味している。第6肋骨から第4腰椎までの脊柱が変位していたら、横隔膜の完全性は見られない。肋骨が脊柱との関節において完璧な位置から外れていたら、横隔膜の完全な機能は見込めない。脊柱と肋骨の完全性は、喉、大動脈、大静脈そして胸管を通り抜ける血液、その他の液体の流れの完璧性を望む前に、必須かつ絶対的に要求されるものである。全ては自由に通過できなければならず、それに付随し、太陽神経叢とその全ての枝に入る、運動・感覚神経も同様である。そうでなければ、停止が起こり、完璧な修復により正常性が保たれるべき臓器の機能の大きな不足の結果として、腹部臓器の修復の遅滞により病気がその仕事を始める。腎臓を例にとると、通常それは完璧だが、腎臓の栄養を妨げる程に、腎臓の神経の始まる脊柱を捻ると、結核結節の堆積物、鬱血、発酵、膿を、起こしたり作り出すといった腎臓機能の矮小化が想定される。または、腎臓に神経の枝を出している脊髄の箇所で、脊柱を折り曲げたり、ストレインをかけたりして、感覚と運動の神経を圧倒したとすると、腎臓の麻痺が起こり、この臓器に特徴的な種々の病気が現れるだろう。これは腎臓の神経が弱められた結果である。

腹部の地理学
 今まさに実地調査の季節が到来し、我々は、臓器とそれらの機能の、確かな知識をもっと得るため、腹部の間近でキャンプをしようとしている。まず、その地理を調査し、体または命の世界における、その位置を見つけよう。そこには、一般測量士によって設立された、境界線が見つけられる。体のほぼ真ん中辺りにあり、横隔膜と呼ばれている。この境界線には、溝の付いた非常に強い筋肉の壁があり、呼吸の現象や、胃や腸に一時的に貯蔵される食物の量に合わせて、縮んだり広がったりできるようになっている。腹部は横幅よりも縦幅のほうがずっと長い。そこは製造を目的として建築された家、または店である。そこには、そこと他の区分にある臓器全てに供給し、これを維持するため、粗削りな血液と乳糜を生産し、完璧な活きた血液に仕上げられるように送り出す設備がある。横隔膜またはこの壁には、腹部へと、またはそこから心臓、肺、脳へと血液や栄養の脈管を通す、幾つかの開口部がある。私は読者の特別な注意を、この横隔膜は真に正常でなければならないことに、向けさせたい。それはどの様な変位もなく、本来の位置に固定され、保持されていなければならず、そのためにあなたは私が意味するところを完全に理解しているべきである。心の中で私と一緒に肋骨へ行ってもらいたい。胸骨から始め、付着を見る、腰椎下部への横隔膜の付着へと下降について行く。そこでは、右脚が左側からの枝または強い筋肉を受け取っている。反対に左脚は右側からの筋肉を受け取り、この二つは合して、左脚として知られる一つの共通の筋肉となる。グレイやモリス、ゲリッシュ等の素晴らしいイラストのある解剖学書で描写的な解剖図を調べれば、この構造は簡単に理解できる。一目見れば、この筋肉によってその下を通る大動脈が締め付けられる恐れがあることが分かる。これが高い頻度で、心臓の動悸として知られる病気の原因になることは疑いようがない。それは単に脚で止められていた血液が、勢い良く戻って来ているだけなのだ。脊柱から遠く離れて、横隔膜の中心近くには、この壁を貫いて、大静脈を通している他の開口部がある。そこから左に行くと、大静脈の数インチ下に、食道とその神経のために作られた他の開口部がある。二つの筋肉は丁度、食道と大動脈の間で交差している。このような仕様は、正常な嚥下に制限を起す、強い締め付けをもたらすのが可能である。

胸管
 ここで、これまで説明されてこなかった数々の病気の原因が、横隔膜の種々の開口部における締め付けにより、血液や他の液体が正常な仕事を行えないように制限されたことの結果に過ぎない、と私が考えていることに注目して欲しい。そうだとすると、胸管の自由な活動の制限は乳糜槽の鬱滞を招くことになる。受け取ったら内容物を直ぐに排出する、ということができなくなるからだ。横隔膜における胸管の結紮が、乳糜を、発酵したり古くなって病んでしまうまで塞き止め、それが他の腹部臓器の物質中に放出され、子宮、卵巣、腎臓、肝臓、脾臓、膵臓、大網、リンパ管、細胞性膜、そして、横隔膜下の血肉と言われるもの全ての肥大化のような新しい成長を準備する、と考えるのは真っ当ではないだろうか?あなたは、より深い、徹底した横隔膜の解剖学的知識と、それが異常刺激や怪我などによって異常な状態にあるときの病気をもたらす力について、自ら要求し、自身を調査に駆り立てることを論理的だと考えないだろうか?覚えておくべきは、これは機械的構造と生理学的活動に対する、あなたの知識が要求される問題であり、妨害のない液体の恩恵が、自然の工場で用意されるとき、古くなって病んだり死んだりする前に、それは目的地へと一気に運ばれるべきであるということだ。あなたはこれまで、症候学の部屋で我慢しないよう、説得されていることを覚えているだろうか?そこであなたが学ぶのは、何かが腎臓とその内容物を悪くしていて、分析すると、不全を起こしている、ということだけだ。尿分析であなたは「脂肪が出た」「糖が出た」「鉄だ」「膿だ」「アルブミンだ」と言われ、「これは糖尿病だ」とか「ブライト病気だ」と結論されるが、これらの数多の尿の正常からの変性は、単純に結果であり、尾骨から頭蓋までの間の、肋骨の落ち込み、脊柱のストレイン、怪我等による横隔膜の異常な刺激が、まずもって全てのトラブルの原因となっていることは、学生の心に提案されない。症候学はこれとあれを一緒にして名前を付ける、といったことには非常に優れているが、それらの病変の原因を明らかにすることに失敗している。それは、横隔膜が、その付着している肋骨の変位により、脱出症を起こすこと、或いは、脊柱と神経に対する怪我によって病んでしまうことを、一度たりとも言ってこなかったし、仄めかしもしなかった。

神経は活動すべし
 神経には五つのセットがあり、各々の命の区分において、重要な要素であることを覚えているだろうか?それらは感覚、運動、栄養と随意、不随意である。エンジニアとしてあなたは、それら全てに精通していなければならず、体を適切に調整することによって、それらの別々のパートと統合されたパートが、命と健康を持続させる役割を演じられるように、無限のパワーを与えられなければならない。
 ここまで私は、あなたの手に、羅針盤、旗、そして鎖を手渡そうと試みてきた。それらはあなたを、腹部全体のどの臓器やどの部分においても、病気の結果から原因へと導くだろう。私は、あなたの精神の水平線を覆っていた多くの謎が消え去ってしまうこと、また、因果関係の不滅の岩の上に据えられた、堅固な真実を提供できることを願っている。古い症候学は、ボトルが空になったアイルランド人にとってのコルク程にしか、使い道がない。オステオパシーは知識である。そうでないなら、それは何の役にも立たない。

論理思考の宴
 あなたを論理思考のテーブルで催される宴にお招きしよう。この宴は、解剖学の最高の著者により提供された物質を一致させるためにある。物質としての人間、その全ての部分は、観察の広い皿の上に広げられ、生理学の工場で見せられる生命の聖なる動向は、空腹な心の前で、テーブルの上に広げられており、これは論理的に思考することを愛する人間、或いは、精神生活の樹になる果実を愛する人間のための、珍味であり美食である。我々の献立は全てあなたの前にある。この宴では16品の皿が用意されている。各々の皿は、人間の理性の舌が試食したり味見したりするための、大量の活きた栄養に溢れている。我々の献立は「脳、心臓、肺、横隔膜、膵臓、脾臓、胃、肝臓と胆嚢、小腸と大腸、直腸、腎臓、尿管、子宮、そして膀胱」である。テーブルの長さは、尾骨から頭蓋底までで、その幅は人体の直径に等しい。この宴は、解剖学と生理学の組合せの美しさを理解しない人間には、あまり興味深いものでも、味わい深いものでもない。その甘さは、招待客の前に出された有機生命の各皿の、組成と用途の長きにわたる、深い学習によって得られる詳細な理解と共に訪れる。そのような理解なくしては、このテーブルのどの皿も味気ないものとなる。そのため、招待客は、自らをこの興味深い発見に加わるのに、適格だとする者だけに限定される。全ての皿がテーブルの上に、傷もヒビもなく出され、自然の神が用意し、送り出したように料理が純粋であるとき、我々の宴の楽しさは理解や想像を越えたものとなる。あなたが招待された宴のご馳走は、時間と同じく永遠で、宇宙の神がその絶対完璧な法でしつらえたように、賢く準備されている。招待されている皆さん。あなたが招待されているテーブルは永続だ。あなたの前に出された精選された栄養は、永遠の始めと終わりの日のように無尽蔵である。よって、この宴は命の有限性でも無限性でも終わることがない。来たいものは誰でも来なさい。
 この腹部の宴の献立で、我々は数字と名前で、供される皿を列挙してきた。オステオパスは腹部のテーブルに出された料理を楽しむ。各々のコースは、招かれた客によって整然と体系的に食されることが要求される。各コースは3つの皿で出される。最初のコースの料理は、一皿目は胃、次が小腸、最後の三皿目が大腸となる。我々はまず、この栄養の運河であなたをもてなす。ご存知の通り、物質的要素の入るところから出るところまで、全ての道程を通じて、栄養の物質が通過する。二番目のコースは三枚の色の暗い皿で、紫の模様が付いている。一つには肝臓、もう一つには脾臓、三番目が腎臓である。三番目のコースは心臓と動脈そして静脈である。四番目のコースは同じ皿の数で、脳と運動神経と知覚神経となる。肺とその物理的、化学的工場は、全身への普遍的な配給と使用のために、血液を浄化し準備する目的で心臓へと送るとき、第五のコースとなる。第六のコースは横隔膜と、その分泌と栄養の脈管であり、その形、位置、用途である。七番目は膀胱、尿管と、排泄の経路を通して、命を失った液体を集め、排出する、全般的システムである。卵巣と生殖システムの血液供給、神経供給が八番目となる。

学ぶべき教え
 この寓意的描写は、人体における命の臓器の形体について何かを学び、その宴に慣れさせるために供された。あなた方はこのコースの各々の料理を食すことに手馴れており、種々の臓器の形態や位置に精通しているようなので、九番目の料理を出すことにしよう。これは4つの皿で構成され、その数は、消化管から栄養分を吸収する工場として知られるシステムの各々の名称と場所のためである。最初の大きな皿は、大網、小網から成る。二番目、三番目、四番目の皿は、腸間膜の各々の区分から成り、盲腸間膜から始まり、横行結腸間膜、結腸間膜、直腸間膜へと続く。腸間膜は実験で明らかなように、強靭かつ伸縮性のある物質で出来ており、そこには血管、リンパ管、分泌・排泄システムが、その機能プロセスに合致する神経と共に供給されている。また、それはとても広範囲に、何インチもの長さにわたって、脊柱と腸に付着しており、第2腰椎から始まり、椎骨の前面を4から6回程上下する。脊柱から始まる付着部は、反対の端で腸に付いている。また、小腸の付着も非常に広きにわたる。解剖学者の観察と報告、そして、我々自身の解剖における観察では、その扇状の端を計測すると18〜20フィートになる。盲腸間膜は、脊柱と上行結腸として知られる腸の部分の双方に、しっかりと付着している。この膜は非常に強靭かつ柔軟性に富んでいる。横行結腸間膜と結腸間膜も、一方の端で脊柱に、もう一方の端で腸へとしっかり付着している。この膜性のシートはとても柔軟で、機械的な重さが加わった場合や、大量の糞便等で腸が押し下げられると、簡単に引き伸ばされる傾向にある。盲腸、横行結腸、S状結腸は、しばしば、その正常な位置から骨盤の中へと堆積させられ、子宮や小腸を盲腸と共に引き下げ、小腸の液体が回盲弁を通過し、結腸へと届く機会を失わせる。こうして我々は、糞便の通過を妨げる可視的、哲学的原因を得るのである。そしてこれは、原因から結果を論理思考する能力を少しでも与えられた人間にとって、議論の余地もない。

調和がなければならない
 腹部の疾患とその間接的原因や作動中の原因、現在ある原因の哲学的を学ぶ学生に言うことは、もし腹部、骨盤、胸部における疾患の意味するところを知っているのであれば、腹部臓器の幾つかの臓器における疾患というテーマを取り上げる準備をしておいた方が良い、ということだ。これらの臓器は、健康をもたらすために、完璧な調和をもって働かなければならない。健康は、結合された物質が、胸管、或いは、リンパや他の液体を運搬する脈管に入れられ、肺に運ばれる時のため、全ての臓器、全ての神経、全ての血管、全てのリンパ管、そして、全ての分泌システムと排泄システムの連続した活動を要求する。数多の細胞や水路を通過してくる液体が、一つのユニットとなるのは理に適っている。健康が完全なものであるために、下部の腸管からの液体は全て運ばれなければならない。それは直腸から始まり、腹部の左側を上がり、S状結腸を上がり、下行結腸、横行結腸を通り、盲腸が本来あるべき腸骨窩へと下がって行く。ここで論理に学べば一気に理解できるのが、大腸の全システムから来て、腸間膜により吸収され、そのシステムを通じて運搬されるリンパ或いは静脈血は、その一滴に至るまで絶対的かつ化学的に純粋でなければならない、ということだ。そうでなければ、直腸から回盲弁までの何れかの区分で、腸間膜によって取り上げられた不純物の量に応じて、病気がその変化を顕すことになる。

障害物
 形態と位置、生産能力の機能と目的、適合性、健康をもたらすために必要な液体の用途、これらに対する知識、徹底した知識が重要であることは言を俟たない。肺によってその準備が整えられ、良い血液が得られたのに、骨盤内臓器や胸郭内臓器に、膜の肥厚やうっ血、臓器やその付属物の肥厚や腫大という形で、病気の状態が現れたとしたら、リンパ管や排泄の脈管、静脈が締付けや、重さ、圧迫、骨や筋肉の圧力により液体の通り道を塞ぎ、それらを引き留め、腺器官の何れかに近接して起る腫大に、大きさと形を与えていることの証拠が得られた、と言えるだろう。全ての妨害は、発酵し炎症を起こし、丹毒や他の炎症の発現をもたらす液体の停止による肥大をもって、一気にあなたの理解にラベル付けされる。これと同じ推理の手法が、急性または慢性の赤痢の始まりと継続がこれらの妨害に原因し、それをオステオパスが理解し、満足していることを証明可能にする。そして、この同じ推理の手法はチフス性赤痢においても有効である。普通の機械的技能を少しでも持ち合わせ、解剖学と生理学に天分があれば、推理の手法を駆使することにより、盲腸、S状結腸、小腸が骨盤内に脱線してはまり、正常に活動するためには絶えず自由でなければならない神経、静脈、動脈を押し付け、圧迫し、これに、うっ血や炎症、血液やリンパその他の物質と共に腸の粘膜が剥がれることが続く、ということが理解できる。この妨害は他の腺器官や神経系を刺激し、刺激を受けた臓器は、病んだ物質をリンパ系や神経系に放出し、この混濁し毒性のある大量の液体が、消化管全体、膀胱、子宮、腎臓、肝臓、脾臓、膵臓から肺へと運び戻される。そして、この生理学的かつ化学的発露により、チフスや他の熱病に付随する熱さや冷たさの温度の差異が、容易に説明可能となるのである。

大網
 我々はここまで腸間膜や子宮、他の臓器に付随する重要性について話してきた。それらがいかにして病み、正常を回復するため努力する結果、腫瘍や炎症、剥離等を起こすかについてである。さて、ここで大網を取り上げ、この臓器を配慮と相応の敬意をもって取り扱おう。それが肺を健康な状態に保つため、全てと言えるほど、多くの役割を担っていることに、我々は感心する。そして、それを信ずるに足る理由がある。結核や他の肺の病気の死後解剖の歴史において、大網の位置、形態、大きさが正常に保たれ、良く栄養され、適切に再生されていることは、非常に稀であり、そこに何かあれば、肺結核が報告される。我々は、大網が生命と健康を維持し、肺を絶間無く清浄にしておくことに、責任を負っていることを証明するに、有り余るほどの根拠があると信じている。このテーマは「肺の病気」の題名の下、さらに長い議論がされることになるだろう。

血液と神経の供給
 我々が学生に強調したいのは、血液と神経の供給に関する知識に特別な注意を払え、ということであり、彼自身と患者が満足できる合格点の仕事ができると期待する前に、その二つの供給の正確かつ非常に広範な知識を習得することである。血液と神経は健康をもたらし、それを持続させることに大きな役割を担っている。健康における血流と神経の力の完全性が意味するところは、両者の調和と活動である。心臓から全ての場所へと血液を通すために、神経が十全かつ自由に活動することの結果が、完璧な健康であるなら、何かの原因で、血液または神経の流れが停止したとして、不完全な活動が何の役に立つであろうか。腹部には沢山の臓器と機能があり、それらは絶えず働いていなければならない。そして、それらのために働く血液と、共に働く神経エネルギーが不可欠なのである。

膵臓
 膵臓はその用途に対する、需要と供給というテーマを開く。健康に活動しているとき、この臓器は膵液というミルクを出す。それは小腸が食物を受け取り通過させ、これを胆汁とミックスさせる間、小腸の粘膜、組織、一般的構造に供給を行い、これを養い栄養する。食物はそこで大腸で錬成される準備をされ、血液の最初の段階としてリンパ系へと入れられ、血液となる最後の仕上げのため心臓と肺に運ばれる。この血液は、それぞれの腺器官の使用に供されるため、大小の動脈を通じて、心臓により送り出される。心臓から出た豊富な血液供給は、それぞれの臓器とその付属物全てに供給し、その全ての供給の完全性のため、大きな動脈から枝分かれしていく。この血液のシステム、そして脊髄、脳、神経は、全てに釣り合う力で、頭部、頚部、胸部、腹部そして四肢のそれぞれの臓器に対し健康な活動を要求する。遍く自然を通して絶対的である需要と供給の法則に例外なく則って。

インチキ療法に近づくな
 差し当たって、我々が今やるべき仕事は、腹部の戦場を戦うことであり、インチキ薬物療法、薬物とその効果に対する無知により内蔵が受ける虐待、そして、それらの効能に対して薬医者達が維持してきた盲信から腹部を解放することである。もし自然が薬を必要としたとして、身体を益すると信用に足る製造所を、どこに見つけようとするだろう?それは、胆汁を作るために自らの肝臓を信じないだろうか?必要とする膵液を作る膵臓を信用しないだろうか?良い血液を作り、仕上げて、身体の病んだ臓器に投薬する心臓と肺を信じないだろうか?身体が必要とするであろう薬効成分に応じて、自らの製品を作るそれぞれの臓器を信用しないだろうか?

純粋な血液の重要性
 もし、腹部が身体にある血液の原料を生産しており、加えて、完璧な健康が良い血液からのみ得られ、完全な血液は、不完全な内蔵、または、腹部、胸部、脳のいかなる臓器の不完全な形態、位置、機能では供給され得ないのであれば、病気の原因の幾つかを、血液生産の始めから仕上げまでを行う機構に求めたらいい。もし、健康における不具合を発見したら、我々は機械工場に行き、未加工の原料から純粋な血液を作り出す臓器のシステムまたは機械に、異常がないか調べることで、自らの叡智を確実に示すのだ。我々は口から始め、両方の顎の不完全性を注意深く検査しなければならないだろう。その関節、筋肉、神経、舌と歯を。もし健全であれば、「OK」と記入する。そして喉に移る。注意深い批評家となり、口から胃までの全ての筋肉、靭帯、神経が、完璧に正常であることの確実性を見出す。そして、もしそうであるなら「OK」と記入する。胃を取り上げ、良ければ、十二指腸に移り、残りの小腸を見て、その経路を大腸で終わる回盲弁まで辿る。これが正常であるなら、大腸に移る。盲腸から始め、それが骨盤内に落ちすぎていないか調べ、S状結腸が盲腸を骨盤の中に押しやっていないか、子宮、膀胱、そして小腸を骨盤腔に引っ張り、回盲弁を閉じていないかを見る。もしそれら全てが正常な状態にあるならば、健康な血液の生産に失敗している原因を、さらに探っていく。我々は全範囲を探索する。まず、回盲弁から始め、横行結腸が腹部を横断し始める右側の屈曲ポイントに上がって行く。注意深い検査により、その区域が問題無ければ、次に下行結腸を対象として取り上げる。脊柱にしっかりと付着している腸間膜から、S状結腸曲または下行結腸のS状結腸区域として知られる部分へと、左側を出来るだけ遠くまで辿り下がっていく。この区域は骨盤に落ち込みやすい傾向にあり、大腸の短縮や折れ曲がりによる妨害で、糞便の停止を起こす。糞便はこのような妨害によって大腸の中を通過できなくなる。もし、注意深い検査により回盲弁、上行結腸、横行結腸、下行結腸に問題が見つからなければ、さらなる観察のために直腸に移る。そして、もしその部分が真に正常であると分かったなら、病んだ血液の原因を探すため、消化管をそれ以上探索するのは無駄であろう。我々は次に腸間膜を、その最上部の付着から盲腸まで、下って調べて行き、腸を正常な位置に保持しているこの膜に、過度な伸長がないかを見ていく。もし、脊柱での付着が、脊柱と大腸に対し、真に正常であると見受けられ、異常なもつれや捻れが、腸間膜のひだに無いのであれば、我々の調査は完遂され、この部位の調査は問題なしと、報告をしなければならない。ここまで、回盲弁から直腸の終端まで大腸は正常だった。我々は大腸に関してはこれ以上の探索はしないが、十二指腸から盲腸までの探索のため、小腸を見て行くことにしよう。もし、十二指腸部分の腸間膜、特に十二指腸と胆管と膵管の結合部付近に、過度の拡張が無いのであれば、この地点から下って、回腸が大腸と接合する地点まで旅して行く。この部分に、腸のもつれ、皺、腸重積症、または、ヘルニアや糞便による妨害、そして癒着が無ければ、我々は消化管が、口から肛門まで、全体的に正常であると報告する義務があり、どこか他の内臓システムに生理学的障害の原因を探すことになる。

病んだ血液
 腹部臓器の病気の原因を探求するとき、我々の持つ既知の事実から、我々に判断させたまえ。身体のどの部分の臓器であれ、病んだ血液は、その進行性の傷害により、血液やリンパ、神経に毒性の混合物をもたらすことで、全体的システムにどの様な結果を及ぼすのか?まず最初に、我々は大動脈が、心臓から直接、腹部臓器に供給していることを知っている。そして、膵臓、脾臓、肝臓、胃、腸、腎臓、子宮、大網、そして腸間膜のシステム、或いは、腹部の他のどんな部分であれ、それらに供給される血液が何処から来るか、見付けることは容易である。同様に、心臓に血液を戻す静脈系も容易に見付けることができる。我々は腹部のリンパ系を発見し、それが全ての機能において、心臓と肺へと、全身の血液供給を維持するため、原料を供給するのを、追って行くことができる。我々は、脊髄神経と交感神経双方の腹部臓器全体に対する神経供給と、その用途と位置を知っている。この神経、血液、リンパの供給に関する知識により、我々は、内臓に対する傷害によって、または、力学的なものや他の原因によって、或いは、腹部の臓器、筋肉、腺または膜が傷付けられることで、腹部に生じる病気の原因を探し、究明を始めるのに準備万端となる。膵臓の病気において、病気の原因は、神経、血液、リンパの供給の不調か、十二指腸へ膵液を運ぶ管に見出されるだろう。もし、病気が脾臓に現れたなら、脾臓の正常な機能を維持する血液、神経の不全の原因を発見するため、原因探求の同じシステムが示唆される。同じ手法が肝臓にも適用され、肝臓と胆嚢に病気を起こしている原因へと、探求者を向かわせるだろう。そして、腫瘍、胆石、癌、そして肝臓と胆嚢の病気のリストの始めから終わりまで、原因としての全ての疑念を、医師の頭から払拭するだろう。
 解剖学の知識がほんの少しでもあれば、腹腔動脈が横隔膜の直ぐ下で、大動脈から分岐し、膵臓、脾臓、肝臓、そして胃に供給していることは、周知の事実である。我々はそれら一つ一つから血液がどの様に戻ってくるか知っているし、神経供給が、腹部のそれぞれの臓器に出入りする血液の活動を与えるため、太陽神経叢から出て行くことも知っている。全ての臓器への、またはそこからの血流の完璧性は、永続的に正常でなければならず、そうでなければ、病んでいるか、血を求めて飢えている臓器に、部分的または全体的に供給する血液の不足において、病気がその仕事を見せ始める。もし、動脈供給が良好であれば、静脈、リンパ系が、排液の仕事をしていなければならない。そうでなければ、脾臓または肝臓の肥大、胃や膵臓の鬱血等が、血液、リンパ、神経の供給の鎖が切れることによって、起きてくるだろう。この法則は、私が列挙してきた身体の全ての臓器における、供給、排液、純粋性、そして健康についても、同様に有効である。子宮の肥大や小腸の病気の原因は絶対的であり、自然の法則は変わることが無い。血液と神経の機能における障害を探すことは、オステオパシーによって論理思考し治癒する者の目指すところである。

自然はどうか?
 自然は自らの仕事を最後まで行うか?もしそうであるなら、我々は拠って立つ永続的な基盤を得ていることになる。それで我々は、自然がその仕事を物質的人間の内に執行するプロセスについて、熟知するために努力しなければならない。それは良く計画され構築された上部構造を作る為だけでなく、血と肉における菌性の増殖が、動物生命の工場に致死性の占拠を行う前に、防衛的合成物を形成する臓器の、全機能の十全な活動を障害または遅延させる、外的要素の接近や接触に対する防御と対処のためである。微生物、細菌、バクテリア、寄生虫その他の腹部の構造におけるこの様な菌性の増殖は、病人の血液、痰、便の構成物の調査結果から、病人の体内に発見されてきたことが、多くの研究者により報告されている。我々はそれらが、血液、痰、糞便、その他身体の物質に良く見つかることに、異議を唱えるつもりはない。それが過去、現在または我々の世代で、最も学識のある勤勉な多くの科学者の発見の結果として、報告されている通り真実であると、進んで受け入れよう。むしろ学生がさらに理解できるように、私の見方を言うと、この様な前述の有機体が、肺の病気、胃腸、肝臓や腎臓のような身体のあらゆる臓器の病気で発見されることを、私は受け入れ、これに賛同する。私はそれらの存在を反証したいのではない。むしろ、そのような証人を立てることで、この様な異常な変化全ては、動脈または静脈血、リンパ、排泄系の停滞、或いは、それらの神経供給が肉体的働きのどこか重要な部分において、途切れてしまっていることに原因していることを証明したいのだ。掃除屋は、望まれる部分の建造における機械工のごとく、良い仕事のために必要なのだ。命の鎖が徹頭徹尾の仕事を完遂するのを失敗させ、命の物質をそのためにデザインされた場所や目的に使われる前に、血液またはリンパの中でダメにしてしまっている、壊れた鎖の環を探す注意深い調査が実施されなければならない。私はあなたに、悪い痰や貧弱なリンパ、不良な血液は全て結果に過ぎず、壊れた環こそが原因であり、バクテリアは死んだ血液それ自体の生命素によって形作られているに過ぎない、ということを分かってもらいたいのだ。

事実に基づくこと
 オステオパシーの科学は論理思考のシステムに基づく、それは物理的にも生命的にも、人間を形作る全てに存在すると証明された、原理と真理を逸脱しない。真理というものは必ず証明可能なものだ。そうでなければ、我々はただ単に、証明待ちの仮説を持つことができるだけだ。だが、それは証明されるまで、実行の役には立たず、信用おける証明により、きっちりと立証されるまで、教えられるべきでもない。こうして、そのような真理は不滅の事実となり、それを得た者は、絶えず良い結果に導かれる。ある臓器は、主要な動脈の幹から、枝として送られた動脈の供給を受ける。その幹は、その臓器が位置している領域から心臓へと戻る、他の幹に接続している。もし、その仕事がきちんとなされ、その臓器が大きさと活動において、正常であると分かったなら、我々は、血液が配達され、生命組織に形と働きを与えるのに必要な力により、正常に使用された、という証明済の真理を得ることになる。我々は観察によって、当該臓器に必要なその仕事は、真実であることを証明する。なぜならば、当該臓器が、位置、大きさ、機能において完璧であるなら、血液や、その血管、その臓器の神経、あるいは、有機生命体の正常な需要を満たすために製造また維持されてきたものに、不完全性が有るはずがないのだから。我々は、当該臓器を作り上げ、その正常な純粋さを維持するため、血液がその意図された用途に使われるように、運搬され収用されるのを担保するために、体の全ての部分に対する縦横無尽な知識と、全ての部分を正しい位置に保つ方法の習得を目標としなければならない。仮に我々が、ある臓器の状態が完璧であると分かったなら、その部分を良好だと宣言することが正当化される。だが、それは何かしらのアクシデントがそこに降りかかり、異常な特徴の原因となるまでで、それが供給または収用のどこかに不全が起きていることを、あなたに教えてくれる。あなたは自らの知識により、原因を探し出し、その場所に見付けられた如何なる不完全性であれ、その臓器と付属物の全てを元の状態へと、再調整を執行することを保証されている。そこには心臓からその臓器へ、またその臓器から心臓へ戻る、開かれた通路が提供されている。肉体を正常な要求へと調整すれば、残りは自然が必ず供給してくれる。健康な状態からの如何なる変異でも、その真因の注意深い探索に用いる、この哲学的ガイドにおける特別な適用を取り上げるために、人体の臓器の形態と機能が真に正常であることの重要性について話すのは、この位で十分であろう。

直腸より始めよ
 病気の始まりとなる可能性のある、自然な原因に注意を向けてみよう。我々の観察は腹部内蔵の最も基底となる、直腸、大腸から始め、左側を後方そして上方へ、正常であれば右腸骨窩にある盲腸へと続く、腹部を横切る地点まで行く。それからそれは、ここで小腸と連結し、さらに、一方向に液体が流れるのを許容し、逆に盲腸から小腸へと、どんな物質も戻らないように、弁が与えられている。我々は探検家として、消化管の異なる区域の正常な位置に対する実践的知識に向かう視点を持ち、直腸から大腸、小腸、胃そして喉へと旅していく。消化器系が人体のメカニズムにおいて、最も重要なものであることを知る我々は、正常な機能を求める前に、良好で健康な結果を、その全ての経路において、形、大きさ、位置が正常である消化管にのみ期待する事ができる。なぜなら、全ての臓器の健康は、間違い無く、口から肛門までの消化管の各部位における、全ての原理と活動の正常性に依存しているからである。我々は知識の重要性、殊に、消化器系のさらなる知識の重要性を認識しなければならない。これ抜きでは、オステオパスは失敗作となる。

内蔵の機能
 私の目的また意図するところは、我々の健康の良好さが、腹部内蔵器の負うところであり、それらは唯一、我々の正常な物理的形態と力に依存していることを、哲学、歴史そして実践により証明することである。私は、この哲学の学生に忠告したい。もし、解剖学的な形態が、位置において絶対的に正しく、その位置に正常な靱帯によって固定されているのであれば、我々は、現在の探検地である腹部の、全ての臓器のあらゆる部門において、完璧に自然な仕事を期待することができる。同様に、いずれかの臓器、神経あるいは血管の正常からの変異が、適切な機能または、神経、血管そして周囲の臓器に病気を引き起こし、既に病んでいるか妨害されている状態に、リンパ細胞やリンパ節にかさばる留置物をもたらすことで、病気を加えることを予見するのは理に適っている。この流儀でいくと、ある臓器から他へと運ばれる血液や他の物質を通す、膜と肉の肥厚により、新たな障害が引き起こされる。これは混乱した状況を作り出す格好の原因となる、即ち、発酵や炎症、膿の形成などである。我々は、化学の知識のある生理学的解剖学者に対し、病的状態はいずれかの物質の停止または貯留のすぐ後に起こるはずだ、ということの論理を説明し、立証をしてきた。局所的発酵が起こり、進行性の浸食により拡大していく。
 学生諸氏は我々が「靱帯」または「靱帯性の付着」という言葉で意味するところを理解できるだろうから、我々は上行結腸から始め、その脊柱への付着と、その付着の組成と柔軟性、収縮力に、あなたの注意を向けさせたい。なぜなら、この筋肉、盲腸間膜が、その脊柱への付着から裂けることなく、大腸の他の区域と共に盲腸が腸骨へと下がって行くのをどれ程許容するのか、知っておくことが重要だからだ。次に我々は注意深く、横行結腸の係留の付着部に目を向け、これが裂けたり分離したりする前に、この腸骨へとさまよう筋肉が、腸とその内容物の重さで、どれ程引き伸ばされ得るのか調べる。我々はこの観察により、骨盤へ向けて、横行結腸が脊柱から、どの程度下がり落ち得るのか、を知りたいのだ。今度は下行結腸を取り上げ、それを背骨へと固定している膜をもって、あなたの注意をその付着へと向けさせよう。細心の注意をもって、下行結腸がその腸間膜の柔軟性により、どれ程下がることができるのか、記録を取るように。死後の解剖における腸間膜は、脊柱からかなりの長さに伸びているのが見受けられる。これが腸を本来の位置から彷徨わせ、糞便の詰まった状態で骨盤を一杯にしてしまうのだ。我々は忍耐強い読者の注意を、腸チフスや便秘、下痢や赤痢他の原因に、もっと光を当て、かつ、その光に浴する目的で、特に腸間膜へと導くものである。

腸間膜
 腸は、一端が脊柱の前面、反対の端が腸に付着する蜘蛛の巣(ウェブ)や平らなロープ、または伸縮性のシートで、固定され、その場所に収まっている。このウェブは、腹内で腸が変化したり、回転、または、他の場所に動いたりするのを許すに十分な長さがある。学生諸氏は、如何なる病気の診断においても、その筋肉が、正常な位置からの腸の移動をどれほど許容するか、知っておくと良いだろう。また、腸の位置の変化が、動物生命における汎用性のための、血液等の液体の自然な流れに、支障をきたし得るものであることも、知っておくべきである。悪い結果を引き起こさない許容量が、もしあるとすれば、腸の変位はどの程度許容されるものなのか?健康の不全や、一つまたは複数、或いは全ての人体の臓器の機能における異常な状態の原因について論究するとき、学徒の心には大きな疑問が湧き上がる。多くの病気の症状には、何かしらの共通点があることを鑑みれば、脊柱、四肢、筋肉や脳の疼痛、熱さや冷えの感覚、昏睡等の季節性の病気に共通の症状をもたらすのに必要とされるのは、同じ原因ではないのか、ということが自然と推測されるだろう。ここまで、一般診療医や治療家の著作や著者の多くが言うような、症状の類似性について話してきたとおり、それらの一般的症状を対比または比較する事で、それらが同じ神経にほぼ同じやり方で影響を及ぼすことが、証明できる。もしそれらが神経系を、同じ様に冒すのであれば、そのような効果をもたらす原因は、リンパ節やリンパ細胞、そして深筋膜や浅筋膜または膵臓に属する栄養のシステムにも関係する。
 人間はその身体が直立した、或いは大地と垂直な動物の一つである。人間は二本の足の上に立っている。他の動物の体には四つの足があり、それらによって彼らは立ち、水平な位置、或いは地面に平行に体を支えている。この両者の臓器は、筋肉と靭帯(腸間膜)により脊柱にしっかりと留められており、それらは、動作と休息の際にそれぞれの臓器を正常な位置に保持するため、サイズや形、強度が想定されている、と仮定するのは妥当である。四つ足の動物の臓器は脊柱の下にぶら下がっており、地球の中心に向かって真っ直ぐに吊られているが、その靭帯は、臓器を水平な脊柱に適応させている時のみ正常なのではないだろうか。二足で直立する動物の体には、体の直立状態にぴったりの靭帯の支持がなければならず、それらがサポートするよう意図された重さに見合った強さと形を備え、同時に、四つ足の動物よりもより強力に脊柱にくっついていなければならない。人間において、我々は、健康という正常な状態からの数多くの変異をもたらす、腸間膜の一層の落ち込みや、捻れ、もつれを予見できる。


 この章は大網、小網、腸間膜、そして筋膜の負傷に続いて起こる病気についてである。これら全てには、それぞれのシステムを供給かつ排液するため、特別にアレンジされた大量の血管とリンパ管、リンパ節があり、それらは分泌と、血液のパワーとして使われる原料物質の準備という、機能的な働きに要求されるパワーに必要な神経の全てを伴っている。肉屋や屠場を訪れたこと、または牧場に行き、農夫が新鮮な肉のために豚を殺したのを見たことがある者であれば、皆知っていることだが、豚には腸を覆う脂肪の包みがあり、農家はその脂肪のシートを「網脂」と呼んでいる。農夫はこの脂肪のシートを、胃と、それを脊柱、脾臓、膵臓そして横隔膜に繋げている靭帯から切り離す。これにより観察者は、大網または「網脂」の大きさと形状の一般的な概念を得るが、その用途については何も学んでいない、それ以上に、それは腸にも広げられている。解剖学の学生はすぐ学ぶことになるが、人間では、上端でおよそ12から16インチの幅があり、胃から下がるに従い、腹部に合うように丸みを帯びる。厚さは半インチ程である。その体には幾つかの大きな動脈が分布しており、リンパ管とリンパ節に血液を供給する非常に細かい動脈が、隈無く配置されている。また、筋性、繊維性の組織細胞も同等に、血液の充分な供給を受けている。

その機能は何か?
 しかしながら、このような知識全てをもってしても、その臓器の機能に光を当てることはできない。少し立ち止まって、さらなる光を求めよう。我々が大網に取り組み、その形態、血液・神経・リンパの供給を考慮に入れると明らかになってくるのが、ある種の製造者の存在であり、我々の目的は、もしそれが可能であるなら、自然が大網をこのように重要な位置に建造し配置した目的に、精通することである。もし、この臓器の役割が、リンパや他の原料を取り上げ、生命の物質を作り上げるというのもなら、我々はその事実の知識から利益を得ることを欲する。まず、我々は大網全体を通してのリンパ・血管・神経のシステムと、それぞれの全ての付着部を見る。そして、我々は物質が大網に入っていく経路を見る。我々は解剖により、血液・神経・リンパ供給の源泉を知っている。我々はこれが工場であることを知っており、しかもそれが、非常に洗練されたものであると信じるに足る理由がある。さらに我々は、それが収集、調整し、送り出している物質の純粋性をもって、全身を健康にし、それを維持することに、大きな責務を担っていると信じている。その完全性無くしては、我々は良好な健康を、当然のこととして期待したり望んだりは出来ないのだ。もし、その活動原理の全てが完全に正常であることが、良好な健康の保証なのであれば、同様に、大網が何らかの外傷や傷害により病んだ時には、全身の病的状態が保証されると考えるのが妥当ではないだろうか?
 私は大網の用途について、身体を生理学的に正常に保つという観点で、腸間膜との関連において、幾つかの思想を提供するために、ペンをとってきた。望むらくは、腸間膜と大網が当然負っている責任について提示できるよう、病気と死の原因に対する考察と共に、このテーマを取り上げ、取り組んできた。我々はこの膜の付着について、首から始め、仙骨の最後の区域まで脊柱を下りながら追っていく。これらの膜はまず椎骨に付着し、それから頚部、胸部、腹部そして骨盤の様々な臓器に付着している。解剖学者に腹膜としてよく知られるところの、この膜システムの何れかの部分により、それぞれの臓器が付着し、その位置に保持されている、という単純な事実の、その先へと我々は行きたい。我々が学生の注意を惹き付けたいのは、首から仙骨へと、ほぼ連続しているこのシステムに存在する、生理学的活動と生産力である。首から仙骨へと付着する、これらの膜は、神経、血液そしてリンパの脈管が豊富に供給されている。それらの役割は、我々が健康であると認識し、そう呼ぶところの正常な状態を維持できるように、それぞれの臓器が分離または結合した、リンパや他の物質を分泌し、様々な臓器や身体の部位を健康な状態に作り上げ、維持するのに適切なタイミングで準備し戻せるように、心臓と肺に送り出すこと、として知られている。身体を正常に保つために栄養が準備され、心臓と肺に送り出される、ということの考察を正しく遂行できるよう、直腸間膜、結腸間膜、横行結腸、下行結腸、小腸の周囲でのこの腸間膜の全システムの付着を隅々まで観察するため、立ち止まろう。我々はまず最初に、腸間膜の分泌器官によって吸収される消化された液体の、分泌と受容の機械的準備の概念を取り上げる。同様に我々は、心臓から送り出され、建造を行う動物生命の機械装置へと手渡される、この液体の収集と、それが最後の仕上げを受ける過程における生理学的機能についても真剣に考慮しよう。我々は読者の論理性に問う。完璧な健康を提供、維持するために、この腸間膜システムにどれほどのものが要求されるのか?私にとっては、腸間膜システム全体が絶えず協調していなければ、何れかの臓器における責務の遂行に、疑いなく支障が現れる、というもの以外に、論理的な人間を満足させる答えは有り得ないと思われる。ここで我々は特に、全身に送られる最適な物質を受け取り、心臓へと運び、身体の継続的修復を維持し、また、肺それ自体を最高の稼働秩序に保ち、それらに課される責務を筋性或いは神経性のパワーにより全うできるように、不純物を分離する化学的な働きによって準備されるために門脈を通って肺へと送られる物質と、それらの不純物を排除するために必要な生理学的なパワーを肺が受け取り、肺自体と筋肉や組織が筋性の物質やエネルギーを供給され続けられるように、肺の一部或いは全体を必要な物質で充たすことで、肺を健康な状態に保つ、大網とその能力について詳述したい。おそらく現時点で学生に対して言える最良のことは、これまでの心臓、腎臓、腸、子宮そして脾臓の病気の調査後に解剖学者達によりなされた死後解剖の報告で、筆者が確認したこと、即ち肺結核の症例においては、普遍的に大網が異常な状態にあったということだ。私が読者に注目して欲しい事実は、これまでのところ私が得られるエビデンスでは、全ての死後解剖で、大網が病んでいるか、あらぬ場所にあったことが検査で示されている、ということだ。全ての死後解剖で、大網のあらぬ方向への肥大、或いは縮小が発見されている。この時から筆者は、もしかしたら肺結核は、肺の病気というよりも大網と腸間膜の病気なのではないか、という考えに注意を向けるようになった。この観点でいくと、近々、我々は肺の疾患に対して(実際は身体の全ての臓器の疾患に対して)、大網と腸間膜にどれほど熟知しているかの程度に応じて、良い結果を得られるようになるだろう。気候と季節の病気のリストにあるほぼ全ては、腸間膜が正常な活動を通じて、健康を維持するのに失敗していることを示す。それは、適切に理解されたならば、大網、腸間膜、首から仙骨までの腹膜の、生理学的働きと正常からの変位を明らかにするだろう。その証明において我々は、腺器官やリンパ系の病気の原因として、自らの結論の観察結果を報告するはずだ。得られた証拠により、我々はその様な変位が、自然の厳格な需要の要求する完全に正常な能力を発揮するのに、腸間膜が生理学的に、或いは血液・神経・リンパの供給の何れかの機能に、失敗し始めている印となると信じている。

確立された原因
 脊柱の関節を滑らせ、神経を抑制するのに十分な力が加わり、脊髄が捻られることで、腸が骨盤へと麻痺的に落ち込むということから、病気の原因の開始が、出来る限り確実に、論理的に発見され確立されるとき、我々は、腸間膜の筋肉が収縮性を放棄し、大腸が骨盤の中へと落ち込むのを許す、一つの原因を証明する事になる。結果我々は、全ての関節箇所における、完璧に正常な脊柱の重要性を知る。この場合、骨盤に落ち込むということは、発生が直ちに確実であり、そして落ちていく体が重力の法則を確認するように、厳密に腸によって観察される。大腸への付着箇所にかかる重さにより、脊柱における腸間膜の付着部に重い牽引が発生し、腸に対して、位置と重さにおける異常性をもたらす。その重さは、複数の臓器の上に直接のしかかかるが、これに先行して腸の落下を引き起こし、今や骨盤内のスペースを占拠しており、動かない糞便で充填された腸の重さの圧迫により、臓器は拷問を受ける。この重しは、腎臓から膀胱へと下る左右の尿管を横切ってのしかかる。腎臓と膀胱の間で、尿の流れが止められることで、腎臓はストレスを受ける。膀胱に入ることを遅延または禁止された尿は、遅延または抑制箇所と腎臓端の尿管の間で、刺激を与える量まで蓄積する。これは腹部の分泌システムによる、毒性量の尿毒素の吸収と分配に、最適な状態である。これが我々にとって、所謂腎臓病と呼ばれるものの、論理的な原因である。我々は、頻発する、或いは一般的とさえいえる、腹壁の拘縮で吊り下げられている腸、膀胱、子宮、腸とその内容物の重さ、子宮とその鬱滞した体、静脈血の留置による鬱滞で加重された、付着している膜と筋膜全ての「座礁」を証明したと感じている。さらなる座礁は、本来の着地点に届くのを止められる、動脈血の妨害により継続する。もう一つの帰結は、静脈、リンパ節、嚢、受け取りと頒布の管における、大きな肥大である。排泄の導管もまた、第一に骨盤の捻れの結果、ショックを受け混乱させられる。この混乱した座礁の積み重ねから、我々は、子宮、膀胱、直腸の腫瘍の形成や、腸、腎臓、肝臓、膵臓そして脾臓の結核といった、腹部臓器の全ての病気を、容易に説明できる。これらの結果は全て起こり得るものであり、全て理に適っており、そして、腹部臓器の座礁に続く結果として、疑問の余地がない。

虫垂炎
 現在において、キリスト生誕からこれまでで最も、内科及び外科の世界の人間は、男女共に現れる腎臓より下の局所的状態、耐え難い痛みの解放という目的に、その心を集中させている。
 幾つかの理由において正当化されるかもしれないが、この問題の原因の調査として、人体を開き、右腎の真下部分の探査を行うことが、決定されてきた。この探査はまず、死体に対して行われた。そこで、数インチの長さのある中空の管である虫垂に、複数の小さな種や他の物質が発見された。これらの発見は、同じ部位における生体の探査を導くこととなった。幾つかの症例において、非常に少なかったが、虫垂の中に種や他の物質が見つかり、虫垂の炎症の原因であろうとされた。幾つかは成功裡に取り除かれ、手術後永続的に解放された。これらの探査と、虫垂における物質の発見とその除去の成功、幾つかの症例における成功的な回復が、正確には性急な診断と呼ばれるべきものを導き、それが広く流布し、虫垂には役割が無く、人間はそれなしでも同様に健康である、という印象の下、沢山の内科医が頼るところとなった。
 結果、それは解決されたが、説明されている場所から上では確実なことは何一つ知られておらず、虫垂自体の病気であると推測されている。これにより、その推測の正誤を確認する探査を目的として、彼らはエーテル麻酔と解剖を行っている。診断において、これが確立された虫垂炎の症例となっており、虫垂を熱心に探す外科医のメスが、恐怖に震える肉体に入れられている。そして、虫垂を探すため、腸はこねくり回される。時として、そこに何かしらの物質が発見されるが、より多くの場合、歯噛みする医者を尻目に、それは完璧煮健康で正常な状態で発見される。結果、まれに種やら、それが何であれ、何かの物質が内包されているのが発見されるが、一般的法則として、それは無用かつ危険な実験だ。メスとエーテルに起因する死亡率と一生不具になる確率から考えれば、虫垂炎に無知で生き、そして死ぬほうが、人間にとってよっぽどマシである、と言っても過言では無い。純粋にそれが原因で死ぬケースは僅かであり、このシステムを続けるよりは、偶さか死んだ方がマシなのだ。

もう一つの勝利
 ここにおいてオステオパシーは、世界に対し解放を提供している。それは絶対的に安全で、一滴の血も失われることがない。その基盤と哲学は、不自然な動きにより虫垂へと入れられたどんな物質であろうと、本来持つ力により排出するという虫垂それ自体の長軸への収縮能力、という事実に基づいている。私がした最初の虫垂炎治療は1877年であり、その時私はSurratt氏を治療し、永続的回復を得られた。80年代前半、私はS.M.Pickler下院議員とサウスダコタの元議員であるJohn A. Pickler氏の母親であるEmily Pickler婦人を治療し、永続的に治癒させた。我々の病院では、おそらく数百例に上る酷い虫垂炎の症例を診てきたが、一例たりとも解放と治癒に失敗していない。外的な物質を受け入れ、排出する虫垂の能力はアメリカンスクールオブオステオパシーで教えられ、卒業生により成功裡に実践されている。Surratt氏のケースでは、私は腰椎の側方への捻れを発見した。私が脊柱を調整し、腸を引き上げたところ、彼は快復した。私がPickler婦人に呼ばれて行ったとき、彼女は外科医により、手術の準備として減食させられていた。彼女は外科手術無しに、私の治療の下すぐに快復し、今日も元気に過ごされている。

多くの疑問
 多くの人にとって、以下のような疑問が湧き上がるだろう。虫垂の入口には、直腸や食道のように動く括約筋が有るのだろうか?それは神経が正常な状態にあるとき、収縮して長さを短縮し、全ての物質を排出するための、収縮と拡張の能力を有しているのか?そして、虫垂の空間に入ってきた物質を、外に出すことに失敗した神経はどこにあるのか?外的物体が入ってきたときのための、収縮能力や、あるいは、その様な物質を排出する能力を、虫垂に備えさせないほど、神様は忘れっぽいのか?もしそうだとしたら、確かに神様は、自らの仕事の一部を忘れてしまっていたことになる。理性が私に、彼の仕事が完璧に為されていることを教えてきた。そしてその延長線上で、私は25年間、患者に痛みや苦悩を与えずに、虫垂炎の治療を遂行し、私のところに来た症例全てにおいて永続的快復が得られた。医者や外科医の、病名は虫垂炎である、という診断と、そこから解放される選択肢は、メスと死の間である、或いはその両方であるとされた多くの症例が、オステオパシー治療のために訪れた。そして、検査により全ての症例で、ある脊髄神経の何れかのセットに、これに先行する衝撃、引っ張り、或いは転倒に起因する傷害が存在している、ということが明らかにされた。虫垂炎そして腎臓、或いは胆嚢の結石における全ての症例で、このような原因を探し出すことができる。
 これらの原理を私は30年間、考察し明示してきた。

完成された神の仕事
 我々は、自然がその仕事を動物の形態の内に完璧に行い、場合に応じて、体の外にそれを探しに出るのではなく、自ら治療薬を生産し適用できる、という賢明に備えられた原理を、動物の形態に与えている、と主張するときは注意しなければならない。病気を探し出し、命の神殿を浄化し安楽かつ健康に保てるように、人間は神によって、きっちり設計され賢く準備されている、ということを我々は実験を通じて発見すべきであり、その事実を既知のものとするのに慎重でなければならない。何世紀もの間、反対の意見が幅を利かせてきた。人は習慣や長きにわたる使用、そして無知により、偉大な過去の慣習に服従するように、自らの心をそれに合わせてきた。したがって、論理的に思考し、無限の叡智と偉大なる思想の高みに自らを登らせる、という事前の訓練が無ければ、彼らは気が狂ってしまうか、茫然自失となり、命の大海の中で生ける屍となってしまうだろう。このような訓練されていない多くの人々が、現在持っている論理思考の力を失うほどに、深刻なショック受け、ダーウィンの原形質へと今一度送り返されるのは、大きな不幸でしかない。私はあなたに、危険が存在することを教えたい。我々は、人々に小さな星を見せるのにも注意を払わなければならない。そしてそれは、一度に一つずつにするべきだ。神は自らに帰する全てのことを為し終えている、ということを彼らが論理思考し、認識し始めるまでは。

腹部の腫瘍とは何か?
 ここでの「腹部の腫瘍」は子宮とその付属物に対して適用するが、本来それは、腹部におけるあらゆる臓器、筋肉、膜の腫瘍を包むべきものである。だが、このような肥大化を、その種々の生産能力が自然であることから、子宮に帰結させようとする傾向が、婦人科医の目にベールを掛け、その豊かさにより腫瘍を育てる子宮の根源的能力以外の全てを見えなくさせている。では、それが確かに育てるとして、その萌芽をもたらす、大本の原因は何で、どこにあるのか?如何なる物とて原因無しには現れず、存在し得ないはずだ。近くのもとであろうと遠隔的なものであろうと、我々は、決然とした不断の努力をもって、裏にある理由、あらゆる腹部の臓器、筋肉、膜にできる腫瘍に命と形をあたえている原因を突き止めなければならない。腹部の腫瘍は、重力と同じ様に自然なものなのだ。腫脹とは、何れかの臓器、または内蔵或いは腹壁の一部において、リンパの自然な導管でリンパが停止したときに、付随して起こる当然の結果に過ぎない。我々は腹部に、リンパ腺、節、神経、静脈、動脈を伴う、組織、膜、筋膜によって、並べられ仕上げられた、綺麗に整った家或いは部屋を見出す。それから我々は、臓器がその機能を果たすのに、全ての区域において楽に作業ができる、十分なスペースを見る。そして、良い仕事、完璧な仕事の遂行のためには、二つまたはそれ以上の臓器は、片方がもう一方に押し付けられている状態では、完璧に仕事が出来ないということが、論理の要求するところである。もし、そうでないならば、これらの地点で、リンパ管とリンパ節におけるリンパの停止のせいで発展した肥大化の発生、そして妨害以外に、我々は何をか期待できよう?例えば、痔疾は腸への圧迫が原因となっている。盲腸が骨盤に落ち込むと、痔静脈で戻ってくる血液を遮断し、直腸における腫瘍の原因を作る。盲腸が骨盤へと低く落ち、糞便の妨害が発生すると、確実に、大腸と小腸の糞便の重さによって、骨盤の内容物の神経・血液供給の自由かつ自然な活動を完全に停止させ、腸の刺激状態と便秘を引き起こす、という事実に読者は注意を払われたし。こうして骨盤の活動が失われてしまうが、これは本来、そこに固有の腸間膜により戻され、離されるべき有害な物体や物質が、溢れる程に押し込められるからである。それらは大腸を骨盤から引き上げ、落ちないようにする事に失敗してしまったのであり、我々は、混乱の原因、腹部における浮腫から巨大な腫瘍までの、骨盤と腹部における肥大の始まりを目にすることになる。解剖学と生理学の学生は、骨盤に始まり、肛門から扁桃腺へと続いていき、あらゆる形態と種類の腹部の腫瘍と、膀胱、子宮、腸、腎臓、虫垂、膵臓、胃、胆嚢、肝臓、脾臓、心臓、肺そして脳の癌を作り出す原因を、即座に見て取れるだろう。子宮、骨盤或いは腹部内臓の何れかの区分や臓器における、繊維性の腫瘍の成長を、どの様に説明できるだろうか?氷塊で川をせき止めることは、水の流れを止めることにはならず、氷塊が上部にダムを構築するや否や、周辺地域に水を送り出す。そこから、血液の川を遮るダムは、供給が来る限り血液を他の場所に流し続ける、というのは理に適っていると言えよう。

脱出した内臓
 脱出した内臓は、神経・血液の流れを妨害する原因を作り出し、且つ、それ自体が原因である事が多々ある。静脈血は、リンパ管による生命力の援助を受けることでのみ、構築に用いられるレベルにまで、静脈の中で死んでしまう。我々はこれが、重さと狭窄による静脈の圧迫部分における肥大の原因であると、論理的に判断する。概して、動脈はその導管に、血液を駆動させる大きな力を有しているが、一方、静脈には、もし有るとしても、少ししかない。よって動脈は静脈血やリンパの生命力を維持することができ、「山」を築き、巨大な腫瘍を形成する。このように我々は、身体の多くの場所、特に腹部内臓に現れる腫瘍について、説明ができる。戻る途中で止められた静脈血の流れは、死んでおらず、動脈血の生命力により生かされており、腹部に異常生成物を形成する。肛門括約筋から始まり脳に至るまで、我々は、腫瘍形成と一般的或いは特殊な異常における、鬱滞の結果を目にする。脱毛症、失明、失聴、扁桃腺や鼻粘膜、気道の病気などである。これら全ては直接的または間接的に説明でき、血液・リンパ循環の妨害に続いて起こるものであることを、とても容易に論証できる。自然哲学、特に生命の機構を学ぶ学生は、これを良く理解すべきである。例えば、この法則の当該部分或いは基盤を、血液は大動脈から膵臓へと、その機能する装置全てを栄養する目的で旅しなければならない、ということに適合させ、自らの心に明示するのだ。動脈が通過する領域で、心臓から膵臓まで血液の流れが自由でスムーズであるという調整が既になされているならば、我々は、膵臓から大静脈へと戻される、静脈の流れに対する考察を取り上げよう。この戻っていく血液の潮流は、膵臓の静脈中で正常な時間を超えて留められ、或いは止められるとき、被害をもたらす傾向が一層大きく、十二指腸へと入る前に完璧であるべき、膵液の不完全な生産により病気や死の原因となる。そこから、大小両方の腸の機能の不完全性がこれに続く、と判断する論理が得られる。我々は、発熱、渇き、便秘、そして十二指腸から回盲弁までの腸の慢性的炎症を予見するだろう。同様に、この栄養への欲求のため、腸間膜の神経における虚弱と、それに引き続く腸間膜の伸長が発見できると予測される。これが腸間膜を長くし、糞便の重さと血液・リンパの鬱滞により、腸が腹部で非常に低くまで落ちて行き、混乱状態の塊に積み重なることを許容してしまう。盲腸は骨盤の床の奥底まで落ちてしまい、回盲弁は、この落ちて積み重なった塊の下で、塞がれてしまうだろう。

キャンプに行こう
 ここで頭をリフレッシュさせよう。解剖において脾臓、腎臓、胃、子宮、膀胱そして大腸、小腸は、往々にして骨盤の中に見つけられる。私はあなたに、それが機械的或いは化学的な如何なる原因であろうと、骨盤の中に投げ込まれることで、この深刻な内臓の座礁が何をもたらすか分かるまで、自らの顕微鏡を手と頭に持ち、今一度骨盤の境界にキャンプしてもらいたい。我々は、体にある全臓器の健康と生命力が、健康と調和的な全身的サポートのために依存している神経系によって、骨盤がよく供給されている、ということを覚えておかねばならない。我々の生命の土台は、最高グレードの礎石をもって、強固に建造されていなくてはならない。そうでなければ、家は土台の不完全な礎石に向かって傾いてしまうだろう。建物は膨らみ、ひび割れ、朽ちて、崩壊してしまい、単なる廃墟の山となって、建築家と建造者の役割に、無知の歴史を書き込むことになる。生命の土台は絶対的に良好でなければならず、我々が骨盤から他の腹部臓器の、裁定と調整を遂行する前に、完璧なっていなければならない。

肝臓
 肝臓は、脊柱と横隔膜に付着する五つの靭帯性のロープで形作られた、ハンモックで吊られている。これは、臓側端では肝臓全体を囲むとこまで、きっちりと肝臓にとめられており、脊柱と横隔膜に戻ってきて、この臓器の形態と機能に適合するように、吊りベッドやハンモック、或いは籠を形作っている。肝臓が休むこのハンモックの正常性は、期待されて然るべきであり、そうでなければ健康の逆が予見される。このハンモックには、血液・神経・リンパ供給の障害で妨害されるべきでない、肝臓の機能プロセスに必要な血液その他の液体のための出入口が備えられている。最高の解剖生理学、化学知識の頭脳基準における、オステオパスの最高、最良の技術と、良く訓練された機械的才能の「巻尺、鉛錘、水準器」によって、その全てのベアリングが調査されたとき、脊柱は機械的な正しさを示さなければならない。我々は、ほぼ全ての所謂肝臓病が、怪我、衝撃や急な動き、温度、毒に由来することを論理が証明してくれる、と信じている。このハンモックが、その付着のどこかで切り放されると、肝臓が苦しむこととなる。これは夏にハンモックで気持ち良く休んでいる女性を例にとって描写できる。ハンモックの上に重量が追加され、取り付けられているロープが切れ、一定距離、1フィート或いは数フィート、女性が地面に落ちるに任せたとしたら、彼女は衝撃を受け、打撲し、脊柱の全長にわたって障害され、おそらく腹部内臓器の怪我に苦しむことになる。ハンモックの中にある肝臓が、その担当する責務を果たしているとき、妨害無しにその仕事を許されなければならない、ということを知るのは理に適っている。標準的知性のオステオパスは、この臓器を保持するために自然が用意したハンモック、巣、籠、または、寝床にある肝臓が、自らに課せられた責務を果たしているときに、得てして肝臓が受ける妨害に続く危険や病気を理解するのに、今少しばかりの説明を要するのみである。

腎臓
 腎臓の病気は以下の通り、
腎臓の鬱血
急性実質性腎炎
慢性実質性腎炎
間質性腎炎
アミロイド腎症
腎盂炎
急性尿毒症
腎臓結石
膀胱炎
遊走腎

戦う結果
 上記リストの腎臓病に対するオステオパシー的意見を、その異常性の姿の遠隔的或いは活動的原因とともに書き記す前に、腎臓の病気の最新の学説と分類の利益を、学生に供することとしよう。腎臓の疾患における最高の権威達は、それらの病気の結果を知ることと、これと戦うことに満足し、原因には少ししかライトを当てていないように見える。これは、尿検査により発見、報告される、正常から様々な状態への尿の変化といった「結果」を、単純に分類する多くの研究者に当てはまる。我々には腎臓の広範な解説があり、鬱滞と炎症が多くの悪い結果をもたらすことを知っているが、結果をもたらす原因の詳細な調査無しに、先に進むことを良しとしない。オステオパシーの教義から湧き起こる最初の疑問は、腎臓はそれ自身の破壊の原因の創出について、責任があるのか?ということである。もしそうでないなら、我々はより満足のいく説明を発見するまで、探究しなければならない。ここで一旦、腎臓から離れ、上行結腸の構造と位置を検査しよう。腸間膜または盲腸間膜を精査し、盲腸が骨盤へ、そして会陰へと下がって行くのを許容する程、腸に付着する膜或いは白色筋が、十分に長いか、或いは十分に伸長性があるかを確認する。もしそうであれば、腎臓の直ぐ下の脊柱への腸間膜の付着部を引っ張ることで、固まった糞便が病気の原因となるだろう。もし、盲腸が骨盤内へと落ちてしまい、この区域でS状結腸が、左から右へと押されてしまっていたら、回盲弁が圧迫され、小腸から結腸へ糞便が通るのを、止めてしまわないだろうか?上行結腸、横行結腸、下行結腸の中に堆積する、この固着した糞便の重みにより、回盲弁が止められてしまい、柔らかい液体でさえも、結腸に入ることができなくなってしまうのだ。ここに骨盤内臓器を異常に刺激し、骨盤内の液体の流れを遅延させる、一つの原因があり、腹部の下部全体が、腎臓システムの領域まで、詰まってしまうのである。

我々の基礎
 我々は、前述の個々に命名された腎臓の病気の結果に、敢えて異議を唱えようというのではない。だが、オステオパスが求めるべきは、それらの結果をもたらした原因なのだ。それらの結果をもたらしている一つの原因、或いは複数の原因に対する、深い知識無くして、それらの病気の治療において、如何なる提案も申し出る正当性は無い、と我々は感じている。何故なら、有名な医学的権威による腎臓病治療が全体的に失敗しているからである。腎臓病の患者の解放と回復において、薬の医師達が依存しているのは、全て一つの共通路線、リストにあるそれぞれの病名に適合する薬、であり、それは既知の薬の多くが失敗であり、患者達はその薬と共にあっと言う間に死に、往々にして、薬無しの場合より早く死ぬのにもかかわらずである。私はここまで、大腸が腹部の下部と骨盤に落ち着くことにより、身体のその部分における血液・神経供給の部分的或いは完全な障害をもたらすことの可能性、蓋然性、確実性を示唆してきた。賢い学生であれば、腎臓病、胃病、膵臓病の症例の九割が、上行・横行・下行結腸の腸間膜の状態、大腸、小腸が上記列挙の結果に責を負うほど、低くまで伸長されるのが許容される状態に、端を発している、という説明で証明できるという私の意見に、賛同してくれるはずだ。私はここに、M.D.達が便秘の解放の原因究明について、そして、彼らが無知である本当の原因について、全くセンスがないことが示されていると考えている。この腸が沈み込んだ状態において進行する結果は、はっきりと見えるものである。一定程度の解剖学的知識のある人間であれば直ちに、我々がその適用により維持され得る哲学をここに有している、と断ずるだろう。私はここに、薬の支持者達が恥で顔を赤らめるであろう事実がある、と考えている。何故なら今日最高の権威達が示しているように、彼らは、これまでその疑問を解決して来ず、見向きも、考えることさえして来なかったからである。


 胃、小腸、大腸においては、大量のガスが生成されている。ガスはまた、肺でも生成されている。胃と腸で発生するガスは、栄養として胃に取り入れられた「生」或いは未加工の物質から生成される。消化管全体でガスが生成されている、という事実は、何人も疑問を差し挟む余地のない程、周知している。我々はそれが事実であろうことは知っている。同様に、口から直腸までの管全体に、分泌の導管が十分に行き渡っており、これらの部分の代謝に要する物質を分泌していることも知っている。我々は、腸が有り余る量の液体とガスを内包している、ことを知っており、そして、この生成、或いは最初に食物をガスへと分解する作業について、自然が一つの目的を有している、と推定するのは合理的である。我々は、身体或いは腸や肺に発見される肉または骨の原子が、血液になる前に、ガスへと分解されてこなかった、という証拠を得ていない。我々の最高の顕微鏡でも肉、毛髪、骨、そして歯の最小の原子を捉えることはできない。我々は以下のような疑問がある「ガス化のプロセスを通じて以外に、如何なる方法で毛髪の原子がこの様な微細な状態にまで変換され得るのか?」天文学では、世界は気体から固体までのガスの凝縮に過ぎない、と言われている。そうであるなら、我々は直径が8千、1万、或いは10万マイルの惑星の形成に、大きなスケールでの、この凝縮の作用を見る。ここでもう一つの疑問が湧き上がる「どのようにしてそのような量のガスが、巨大な天体、直径6万マイルの木星、或いは直径7千2百万マイルのアークチュラスを形成するのか?」ガスは宇宙に根源的なものであり、それがどの様に凝縮するかは、天文学者が解くべき問題である。我々は自らの研究を、人間の身体だけに限定し、その中でガスの作用が、その構造に見られる微細な物質を、如何にして形成するのか、を見ていくことにする。我々は、消化について、胃や腸で、どの様にして種々の液体が合成され、変化がもたらされるかを語る。また、膵液、胆汁その他の追加によって、腸間膜の吸収作用により吸い取られ、静脈血に統合され、肝臓の脈管により送られ、肺へと成功裡に到達する糜汁、乳糜、リンパと呼ばれる液体が、どの様に生産されるのかを語る。ここ肺で我々の目は、この血液とリンパが2億の部分に分割され、終着するのを注視する。ここで、その数の肺胞によりガスへと転換され、不純物が分離され、悪い物が追放され、良い物が血液に凝縮されて、体の中にその場所を占める血肉として収用され、かつ、物理的生命の経済において課される全ての責務を行うため、心臓へと送られる。これまでの全ての証拠は、身体の骨、歯、筋肉、腱、神経、血管、毛髪そして内蔵の根本はガスから成り、ガスが凝縮しているに過ぎない、という事実に有利に働いている、と言っても過言ではなかろうと思う。今我々は、患者の治癒を成功させる、良い健康の化学者として、ガス製造機構がその工場作業を行えるように、機械の状態を良好に保たなければならない。そうでなければ、我々は確実に患者の治癒に失敗し、苦痛を和らげることすらできないだろう。

消化の哲学
 消化とは、化学的結合と動物の熱、両方により食物がガスの原子に分解されることである。胃は精巧に作り上げられたガス蒸留器である。それは食物を混ぜ合わせるプロセスを始める。食物の最初の一口が飲み込まれた時から、非常な早さでガスが生成されるが、これが往々にして分泌系が取り込むより早いので、胃の圧迫を解放するために、風が上がってくる。自然は間違いなく、血液を作るために、食物をその最高純度に高めている。従って、食物全てのその最小原子への分解に対する需要は、避けられざるものであり、ガスはそのレベルの原子であることから、ガス生成に適した機構が、身体に豊富に備えられているのは、当然であろう。賢い人間にとっての課題は、食物をガスへと変換する作業を行う機構を見つけ、その場所を特定することである。我々は胃の位置を特定し、それがガス生成のプロセスを始めることを証明したので、次のステップに進み、部分的に混合された食物が胃から受け渡され、胆汁、膵臓と他の化学物質を受け取る、十二指腸に移る。ここで小腸の化学的活動によってさらにガスが形成され、腸からの腸間膜の中へ、そして、確実に回盲弁から、腸の機構の第三にして最後の区分である大腸へと運ばれる。大腸は「淀んだ」発酵によって物質をガスへと分解し、腸に付着する腸間膜の大きなシートへと渡す。この腸間膜は、大腸から栄養の原子を吸収し、胸管それから肝臓、心臓、そして肺へと運ぶことを仕事とするリンパのネットワークで供給されている。この様に腸間膜、小腸と大腸の全ての区分における、あらゆる捩れや捻れを排除することにより、ガス製造機構を良好な作業秩序に保つことの重要性を、我々は確認するのである。では、血液に作り変えられる前に、食物を精錬するプロセスは、全て消化管の機構に帰属しているのだろうか?答えは否である。我々はもう一つの、全ての中で最も偉大なガス工場、肺に辿り着く。肺は、生きた血液として心臓に送られる前の最高の精錬プロセスのため、静脈血と共にリンパを、その最も純粋な状態で受け取る。こうして我々は、パンを生きた血液の状態にする唯一の論理的方法である消化のガス精製を通じて、血液を形作る全過程を始め、これを終える。

電気による消化の過程
 少し立ち止まり、論理思考し、質問に答えたまえ。電気には「力」以外の資質があるか?それは単純に、世界、そして形と動きのある物体を動かすか?もし大きな樹木が電気によって、原子レベルに引き裂かれるとして、電気はそのようなパワフルな作業をやってのけるのか?或いは、それは樹木に発見される元素を爆発させる原因となり得るか?私の調査目的は消化である。人は殆ど全ての鳥、獣そして爬虫類を飲食する。人は全ての歯が無くなるまで、咀嚼を行う。人は牛肉その他の食物の硬い塊を、咀嚼無しに飲み込むが、その健康と強靱さに、明白な変化を殆ど見せない。ここで私は、消化というテーマでの今の生理学者の説明に、満足できないことを言っておく。彼らは、我々が噛んで飲み込む、すると食物は胃の中で様々な変化をする、と言い、幾つかのギリシャ語、即ちosmosis, exosmosis, endosmosis, 動き、取り出し、取り入れ、を我々に語り、そこでやめてしまう。私の質問に戻ろう。果たして我々は、消化が、物質を血液に形作る前に、最も微細なガスの原子に変換するプロセスである、と信じるに足る、大いなる根拠を有しているか?もしそれが真であるならば、我々の食事は可燃性であるはずで、電気が燃焼の原因となり、人と獣が食べた物質の原子を分離するのは、確定的であろう。

腸の便秘
 グールド曰わく「便秘とは、腸がバラバラに長い期間で排出をする、腸の状態である。」これはその言葉の、日常的意味を表してはいるが、我々は、便秘として知られる結果をもたらす原因について、さらに学ばなければならない。病気として、その深刻さのレベルは様々である。便秘の症例の幾つかでは、2日から14日に及び、その時点で、下剤、或いは、固く乾いた糞便を柔らかくする化合物の入った、または入らない水の使用無しには解決されない。停止が起こり、腸はその機能に不全をきたし、糞便を運び出す力は、何かしらの原因により、失われるか制圧される。固くかさばった堆積物による異常刺激が生じ、神経系を妨害する。これに発熱が続き、様々な愁訴、即ち、痔疾、腎臓の問題、膀胱と子宮の病気、子宮、直腸、卵巣そして腹部の腫瘍、肥大し癌化した肝臓、胆石、膀胱結石、胃痛、食欲減退、鼓腸、脾臓と膵臓の鬱血、腹部と骨盤の全ての臓器における正常性の停止と共に、背部痛、頭痛、そして腹部の全体的混乱が、便秘の進行した結果に心臓と肺が到達するまで起こる。しかしながら、この腸が正常に活動していないことによる、全てのトラブルの原因を、病気について著す者は、学生に示してこなかった。筋膜、腸間膜、そして腹膜が、骨盤腔に大腸が押し込められることで、正常な場所から外され、これらを異常刺激の引っ張りに固定することで、病因となるとは報告されてこなかった。腸が糞便で一杯な時に、腹部をまたぐこの圧力が、盲腸を骨盤底に押し付け、S状結腸の重さと大きさによって、そこに居ることを強制する。これが回腸から盲腸への開口部を塞ぎ、糞便を、大腸そして体外へと押し出されるのに十分柔らかく保つために、小腸が、水その他の液体を大腸へ供給する機会を断ってしまうのだ。

便秘の治療
 今日まで長い間、教育され実践されてきた便秘の一般的理解では、盲腸から始まり、上行、横行、下行結腸、直腸へ続く大腸の中に、大量、或いは幾らかの糞便が留置されている、とされている。それはまた、糞便が何らかの理由により凝固し、乾いてしまい、乾き過ぎるせいで大腸に堆積することを意味している。これは糞便と腸の内面の膜との摩擦を除去し、蛋白質性の物質を通過させるのに必要な液体を供給する力を、粘膜が失ってしまっている、ということである。乾燥した表面で乾いたものを押す方が、良く潤滑された表面で湿ったものを押すよりも、多くの力を要する、という説は論理的である。ここで、一つの疑問が湧き上がる。果たして身体のどの部分から、この糞便潤滑物質は来るのか?もしそれが大腸から来るのであれば、確実にこの液体を供給して糞便を潤滑し、蠕動運動がその物質を容易に通過させ、盲腸から直腸へと運び出すだろう。この目的に対して、大腸は十分な潤滑液を供給しない、ということを我々は教えられている。従って、我々はより豊富な供給源を他に求めることにし、これが我々を、解剖学と生理学の知識と共に、膵臓へと連れ戻す。我々は十二指腸で立ち止まり、この液体が通過する「門」を調査する。もしこの地点に、狭窄或いは妨害により膵管を閉鎖する、肥厚した膜、胆石、または、他の某のかさばる物質という形で障害物があるなら、我々は、膵液が自由に流入するのを妨害している原因の除去を、直ちに執行する。もし、小腸に膵液の供給を良くする通常の緩和方法に、便秘が抵抗するようであれば、障害物を見付けるという視点を持ち、十二指腸から回盲弁まで1インチ毎に捜査していかねばならない。この場所で、小腸は大腸と結合し、開口する。盲腸として知られる円形をした大腸の端の部分から2〜3インチ上である。我々は、この小腸の終点である回盲弁において、右腸骨窩から骨盤の中へと落ち、押し込まれた盲腸と共に、障害物を発見する可能性が非常に高い。これが結腸へとこの液体を通し、膵液で大腸を潤滑する小腸の能力を奪ってしまう。我々はオステオパシーの整備士として、妨害の原因を見付け、適用する治療法を知っているのだから、ここて、膝胸位をとり、腹部に両手を置き、骨盤から盲腸を引き出し、小腸から大腸へと膵液の出口を作ってやる。盲腸が骨盤から引き出され、右腸骨窩の正常な位置へと上行結腸が戻され、円形の端が恥骨結合の高さにあるとき、我々は、回盲弁が、小腸に留置されていた液体を通過させ、自由に排出するのを見込めるのだ。小腸の液体は、結腸の内容物を柔らかく、また可動状態に保つため、回盲弁を通して、先へと送られなければならない。この状態で、蠕動運動は糞便を恒常的に動かし続けることができる。こうして我々は、便秘の原因を既知のものする。それは単純に小腸の液体が大腸へと入るのに失敗しているだけなのだ。次に我々は、小腸から大腸へと回盲弁を通って、この液体が通過するとき、一騒動あるのが想定できる。大腸へと押し出され、既に大腸を占拠している塊を大きく増量する、小腸からの液体の追加によって、結腸の全ての範囲を通じた疝痛が予見される。固さを溶かす柔らかい液体によって、この塊の大きさが増すのである。この状況においては、上行結腸が正常で、横行結腸が正しい位置にあり、下行の部分の全て、そしてS状部分を通じて、絶対的に正常であることが必要だ。
 治療では、膝胸位において、注意深くし、恥骨結合の付近で優しい圧をもって、左腎臓に向かって滑らすように上に動かす。横行結腸を辿り、その区域で見つかる沈下を、指を突き立てることなく、上方への力で優しく全て持ち上げ、消化システム全体を臍に向かって持ち上げる。もし、疝痛が酷いようであれば、S状結腸と結腸の下行部を通して後方へ、直腸から腸を優しく引き上げ、回盲弁へとキレイにして戻る。回盲弁を閉鎖し、結腸への柔らかい液体の継続的流入を妨げる状態へと、盲腸が骨盤の中に落ちて戻らないように気を付けること。腸に捻れ、捩れ、重積、癒着がある、或いは胆石、または飲み込んでしまった外部からの固い物質により、回盲弁に閉塞が有る場合、これが盲腸から直腸まで結腸を解放する上手い方法である。最初に、骨盤から盲腸をその正常な位置に引き上げ、それから落ち込んでいるかもしれない横行結腸を引き上げる。同様に、骨盤に落ち込むと障害となる、左側の区域もS状結腸まで治す。この時点で私は、盲腸間膜、横行結腸間膜、結腸間膜の折り重なりも、総じて容易に再調整できると言おう。捻れ、捩れ、そして結腸を通じた液体の通過に対する様々な障害物は、克服され得る。そして、障害は存在することを止め、腸の正常な活動がもたらされるのだ。

技術が必要
 ここまで私は、便秘のケースにおける手順の一般的ルールを、執行に際して幾らかの知的な技術が使用されるという期待と共に、学生に示してきた。小腸からの液体の停止として説明される、この結腸の状態に続く結果が、詰め込まれた結腸に伴って、一群の機械的異常刺激を提供し、適正な見出しと場所の下、直腸、膀胱、子宮、腎臓、胃、腸、肝臓、膵臓、脾臓、腸間膜と腹部の腺器官の病気として記されるだろう。